諦めの哲学

 不可能な状況にあって、意識の枠組みを変える方法の中で著名なのは、「酸っぱいブドウ」の戦略である。高いところにあるブドウを、遂に努力しても獲れなかったキツネは、「あれは元々、酸っぱいブドウなんだ」と考えることで、不可能な状況を諦める方法論を身につけたのである。

 このイソップ話が、米国人に不人気であるのは言うまでもない。(写真は1867年に刊行された英訳本)

 「ポセイドン・アドベンチャー」(1972年、ロナルド・ニーム監督)という映画を想起したらいい。逆立ちした船の中で、ひたすら動き回った挙句、自らの危機を脱するというパイオニア精神こそが尊重される気風が、彼らには厳然とある。

 酸素を作り出すことで地球に生還できた、あのアポロ13号のパイロットたちの冷徹な頭脳と意志を例に挙げてもいい。(1972年、酸素タンクで小爆発が起こったことで月面着陸を諦め、奇跡的なUターンに成功した)

 窮地に陥ったときこそ人間の本当の価値が試される、と言わんばかりの積極的思考が多い国であるが故に、そのような国民性を代弁してきたとも言える。ジョン・フォードの「駅馬車」(注1)から「アルマゲドン」(注2)に至るまで、この国は「逆境に強い男」を描き続けざるを得ない宿命を生きてきた。

 そんな彼らから見れば、キツネの思考は怠惰の思想である。
 その相対主義は、弱者の自己弁護としか映らないであろう。「阿Q正伝」(注3)の弱さこそ、東洋人の負け犬的思想であるとも思うかも知れぬ。

 ではキツネに、ブドウの木に体当たりしろ、とでも言うのか。

 まさかブドウが落ちてくるまで待っていろ、とは要求すまい。待つことを拒む国の人々が、キツネに無駄な労力を強いることは勝手だが、キツネはまさに、蕩尽されるだけのエネルギーのコスト計算の結果、例の「諦めの哲学」を選択したと解釈することもできるのである。

 動いて危機を脱するという方法論は、全く無効であるとは思わないが、じっと動かずに、諦めることによって開かれる未来というものもある。迷って、迷って、迷い抜いてもなお決断がつかないとき、私の場合、「このままでいい」と思うことにしている。それもまた、一つの決断であるからだ。

 「酸っぱいブドウ」の戦略は、人間に無茶な理想を徒(いたずら)に追い求めさせないための、節度の効いた相対思考なのである。

 「諦めの哲学」のどこが悪いのか。

 無茶な理想の追求より、今ここにいて、自分の能力で少し努力すれば手に届くであろう、些か甘味の足りない果実こそ、私にとって、時には価値ある何かなのだ。


(注1)1939年製作。駅馬車に乗り合わせた人々が、インディアンの襲撃を受けて戦うという西部劇の古典的名作(とされる)。しかしそこで描かれた世界には、「先住民族であるインディアン=悪」という差別的な歴史観が横臥(おうが)する。

(注2)1998年製作。マイケル・ベイ監督による、ハリウッドお得意の、SF映画仕立てのヒューマン・アドベンチャー。巨大な小惑星が地球に衝突する危機の中で、命を賭けて地球を守るという勧善懲悪の娯楽作品。

(注3)魯迅の傑作小説。

 村の誰にも相手にされない阿Qは卑屈だが、自尊心だけは高く、常々、村の者たちに一泡吹かせようと目論んでいたときに、たまたま辛亥革命(1911年)が勃発し、阿Qの村にも革命軍が進攻するという情報を耳にした。

 革命軍を恐れる村人たちの反応を見て、阿Qは革命派を装うことで周囲の者から一目置かれたが、結局、略奪者として捕えられた挙句、処刑されてしまったのである。

 この短編小説の中で、左翼作家であった魯迅は、どのような状況に置かれても、常に自己満足の手立てを見つけて生きる阿Qの卑屈な人生(精神勝利法)を、当時の中国人の生き方と重ね合わせて批判した。
 
 
(「心の風景/諦めの哲学」より)http://www.freezilx2g.com/2008/10/blog-post_5245.html(2012年7月5日よりアドレスが変わりました)