確信という快楽

  分らなさと共存することは、ある意味でとても大切なことである。

 自分は常にぼんやりとしか分っていない。それでも少しは、そのぼんやりとした部分を晴らしたい。別に、果てしなき進化の幻想に憑かれているわけではない。分らなさに居直りたくないだけである。限りなく確信に近づきたいが、そこに逢着したという幻想にも心理学のトリックが絡んでいることを、私は別に否定しない。

 有名な話だが、「均衡理論」で有名なハイダー(注1)は、人の確信の根拠は、その対象を考えるときに常に独特の印象が必ず起り、しかも他者も自分と同じ考えであることへの信頼の強さによって形成される、と説いている。

 一つの対象を映像化するとき、いつも同じイメージしか思い浮かばず、その類似のイメージを、自らの周囲で繰り返し確かめてしまうと、人は自分の観念を確信化してしまうようである。人が「これは私の確信です」と言うとき、そこには自分の中にある不定形なイメージ群が、どこかで出会った類似の文脈によって、その信頼度を増幅させた経験が媒介されている場合が多いのだ。

 イメージに変化が起きない限り、確信は生き続ける。

 人は結局、イメージの束のその微妙な差異で衝突したり、その近接の中に深い共感感情を分娩したりするのである。

 そして多くの人は、自分が生きる上で必要な情報を定着させていく。だから大抵、狭い情報の圏内で確信的文脈が形成されるのだ。人々のイメージのゲームには、独創的なまでの極端な歪曲もない代わりに、柔軟な修復力もあまり期待できないのである。
 
 特定的なイメージの束が、確信的文脈にまで至る行程にあって、少なからぬ役割を果たしているものの一つに「ヒューリスティック処理」(注2)がある。これは簡便な判断によって、直感的に判断を下すことである。

 例えば、職業に対するイメージで人の性格を特定したり、他人の能力を評価したりする場合、自分の能力を基準にして測ってしまうような場合などに往々に見られるものだ。

 多かれ少なかれ、皆、このような簡便な判断処理に馴染んでいるが、決定的な判断を必要としない日常的なケースでは、人は最も身近で、類似なイメージによって、対象の評価をいとも簡単に下していく。こうして簡便な処理を介して集合した特定的なイメージが、少しずつ固有の輝きをもって一人歩きするに違いない。

 そしていつのまにか、人は様々な対象に対する、様々な確信を立ち上げていくことになる。確信をもつことが、自我を安心させるからである。自我を安心させるものが一番強いのだ。

 自我を安心させねばならないものがこの世に多くある限り、人は安心を求めて確信に向かう。しばしば性急に、簡潔に仕上がっている心地良い文脈を、「これを待っていたんだ」という思いを乗せて、飢えた者のように掴み取っていく。人には共存できにくい分らなさというものが、常に存在するからなのだ。

 それにも拘らず、分らなさとの共存は必要である。

 自我を安心させねばならない何かが、引き続き、分らなさを引き摺ってしまっていても、その分らなさと暫く共存するメンタリティこそ尊重されねばならない。

 分らなさを継続させる意志には、小器用に展開できない自らの人生に対する誠実なる眼差しというものが、常に幾分かは含まれている。その信頼が、分らなさとの共存をギリギリに不快なものにさせないのであろうか。

 それは「確信という快楽」を、暫くお預けにする大いなる勇気の源泉の一つでもある。


(注1)アメリカの心理学者。「均衡(バランス)理論」(認知的均衡理論)とは、人間は他者との関係が不均衡になることを避けるように認知し、行動するという仮説。

(注2)ほぼ確実に正しい結果を導くことができるコンピュータ的な算法を、「アルゴリズム」と言うのに対して、ヒューリスティックとは直感的、経験則的な判断等で、一定のレベルの解答を得ることが可能な手法のこと。
 
 
(「心の風景/確信という快楽」より)http://www.freezilx2g.com/2008/10/blog-post_24.html(2012年7月5日よりアドレスが変わりました)