大石の戦争

 この国の人々の心の風景の、あまり見えにくいテーマについて簡単に言及したい。

 それは、この国の人々にあって稀薄だと思える「闘争心」のこと。具体的には、「日本人の闘争心の継続力の不足」についての言及である。

 四方を海に隔たれていて、そこだけは何か、相対的にアンタッチャブルなエリアとして、地政学的に守られている感のある風土の中では、常に侵略される危機感を捨てられない、地続きの状況下に置かれた人々の意識が届くことなく、それを恰も、「取得のオプチミズム」であるかのような精神構造を、「和の文化」という名の極めて柔和な観念を形成的に育んできたと把握することに、私は殆ど違和感がないのである。

 因みに、「取得のオプチミズム」とは私の造語で、簡単に言えば、「安全」と「安心」が低コストで手に入っている実感の中で、いつしかその観念を生得的に与えられたものとして、人々の意識の中に張りついてしまっている心理的文脈であると言っていい。
 
 しかし人間社会の現実は、「安全」と「安心」の絶対的な保障など存在しないことは、言わずもがなのこと。従って、「安全」と「安心」の基盤が崩れつつある不安を感じるとき、この国の人々は、その危機反応についての心の風景を一変させるのだ。

 即ち、一気にペシミズムの観念が人々の自我を搦(から)め捕っていくことで、信じ難い心理的なリバウンド現象を出来させてしまうのである。私はその際立って印象的な現象を、「喪失のペシミズム」と呼んでいる。つまり、「取得のオプチミズム」と「喪失のペシミズム」は、この国の人々の危機反応の様態を特徴づけるものであって、それは殆どコインの裏表の関係にあると考えている。

 元来、平和志向の「農耕民族」(?)であり、且つ、四方を海に隔てた自然の要塞であるかのような、小さな島国の中で断続的ながらも維持させてきた「和の文化」にあっては、「鋭角的闘争回避の精神」(私の造語)を身につけてしまった人々に、一世紀近くに及ぶ「グレートゲーム」(19世紀における、英露両帝国による中央アジアを巡る覇権抗争)を厭わない肉食民族的な闘争心を求める方が、どだい無理というものなのだ。

 然るに、そんな「無理な闘争心」の強制的な発現を、近代史の「砲艦外交」の暴力的恫喝によって、唐突に求められたのである。そのとき、この国の人々は一気に「喪失のペシミズム」に流れ込み、その恐怖感の中から、或いは、ノルアドレナリン(注1)の過剰な分泌が堰を切ったように澎湃(ほうはい)したのか、「尊王攘夷運動」という名の、外国人に対するテロリズムがうねりを上げて激甚に暴発化してしまったのだ。そんな歴史の苛烈な展開の中で、この国は有無を言わせず、躊躇する時間の余裕すらなく、近代社会の激越な展開を必然化させるに至ったことは周知の事実。

 この歴史展開の速度の過剰さが、この国を汎社会的に撹乱させた果てに、愚かなる「戦争の世紀」の中枢の一翼を担うことになって、あらゆる価値を喪失する決定的事態に流れ込んでいったのである。

 その辺の事情を、心理学的に考察してみよう。

 思えば、この間の凄惨な歴史の中で、闘争継続力の不足という致命的欠陥を糊塗(こと)するために編み出した玉砕戦術を、「砕けて散る」という美学でカモフラージュしてきたのは、「真に強き男」であることを要請された近代史的展開の、国際的に尖った流れの中では、ある意味で不可避であったとも言えるだろう。

 東アジア共通の海禁政策を維持していたであろう自己防衛的な歴史状況が手伝って、周囲に実質的な敵のいない鎖国体制下の封建社会では、支配階級としての権威を守るための「武士道」の規範は、大見得を検証する機会を持たないが故に、幻想でしかないそのカモフラージュが惨めに自壊することはなかったのは当然でもあった。

 だが、白人たちの暴力的恫喝によって被膜の如き鎖国網を寸断され、喰うか喰われるかの世界史的展開に呑み込まれて(ウォーラーステインによると、「世界システム論」)、そこでのサバイバル戦に残るためのハードなテーマをクリアしていく行程は、どこの国も手出しができない軍事国家への過激なシフトとなって現れた。侵略を蒙ることへの過剰な防衛意識が、工業革命への成功を踏まえた流れにサポートされて、その流れが顕著に遅れている、同じ儒教圏への侵略となって外化されたのである。

 明らかにそこには、「我日本の國土は亞細亞の東邊に在りと雖ども、其國民の精神は既に亞細亞の固陋を脱して西洋の文明に移りたり。然るに爰に不幸なるは近隣に國あり、一を支那と云い、一を朝鮮と云ふ」(時事新報紙の社説)という露骨な「脱亜論」に象徴される、身近な者の立ち遅れを軽侮する、一種歪んだ感情が潜在していたに違いないと思われる。

 それは、ほんの少し前まで、身近な隣国が置かれた状況を歴史化させていたこの国の、劣化した姿を目の当たりにしたときの裏返された軽侮感であると言えるだろう。そして、この国の人々に固有な、「勝気なメンタリティ」(自分を知る者に対しての虚栄のポーズであって、決して「強気」ではない)は、いつでも最も身近なる他者と争ってしまうのである。

 この身近なる他者(隣国)を配下に治めようとした暴力的展開の結果、白人たちの利害と衝突し、遂に交戦するに至った経緯にも、勝気の民族精神のプライド防衛という側面が反映されていた。いよいよ、「強き男」が要請される時代を開いていって、その必然的展開の中で、闘争心を育て、それを強化するための「皇軍」の性急で、自立的な走行が待望された。しかし勝気なだけの民族精神を、白人の容赦のないリアリズムを粉砕し抜くほどの、闘争心溢れる何ものかにシフトさせるには元々無理があったのである。

 短期爆発的に戦うことはできても、その闘争継続力にはどうしても難がある。しかしズタズタに傷つけられたプライドを守らないと、国内的な暴発を抑えられないかも知れない。その厖大なストレスの集合点は、「鬼畜米英」という、極めて感情含みの「絶対敵」に向かわざるを得なかった。パールハーバー破壊とプリンス・オブ・ウェールズ(注2)の撃滅という一点によってだけでも、恐らく、勝気な民族が僅かな期間で、その内側に一気にプールさせた、厖大なストレスの溜飲を相当程度下げたはずである。心情的には、もうその先はなかったと言っていいのだ。

 しかし黄色人種から奇襲を受けて、白人国家がそれで済ますわけがない。彼らの本気のリベンジは凄まじかった。それを使用しなくても楽勝に降伏させられたのに、彼らは当時、有史以来、全く未知の恐怖をイメージさせた2発の原子爆弾を、女子供たちの頭上に落としたのである。

 このような白人国家の本気のリベンジ戦に、この国の人々は殆ど正攻法で戦えない。たまに戦っても、相次ぐミスでしくじるばかり。結局、玉砕戦に向かうしか術がなかったのである。最後まで、人々の闘争継続力の不足がネックとなったのだ。

 空母をとり逃がしたパールハーバーの奇襲の甘さ(第三次攻撃を決断しなかった、第一航空艦隊司令長官・南雲忠一の判断ミスとも言われるが、真偽のほどは不明)や、「武蔵」、「大和」という大見得だけのデモンストレーションを見ていると、白人国家との苛烈な戦争の顛末において、格好や体裁に固執した勝気なだけのメンタリティが透けて見えるのである。

 長期間にわたる戦争に嵌ってはいけない国の人々が、「勝気のメンタリティ」の生命線を触発され、遂に嵌り込んで逢着した圧倒的な不幸だけがそこに晒された。

 「武士道の美学」なるものは検証されることがなかったから、鈍い輝きを放つことができたのである。然るに近代戦のリアリズムは、大見得のカモフラージュでしかない玉砕の美学の、その屍の上を淡々と越えていったのだ。この国に根付くとされた「武士道の美学」は、本質的には、殆ど実体性の乏しい内向きのものでしかなかったのである。

 
(「心の風景/大石の戦争」より)http://www.freezilx2g.com/2008/11/blog-post_06.html(2012年7月5日よりアドレスが変わりました)