ガラスの動物園('88) ポール・ニューマン   <ロウソクを消せ、ローラ>

 1  家族という縛り



 1930年代の世界恐慌のただ中、アメリカ・セントルイスの裏寂れたアパートの一角に、その家族は住んでいた。
 
 南部の裕福な家庭に育ち、それを唯一の誇りとする母アマンダと、既に成人して靴会社の倉庫に勤める息子のトム、足に障害を持つ娘ローラによって構成される一見平凡な家族。しかしその内実は、この厳しい時代に生きる者たちの標準的な家庭像の範疇から、明らかに逸脱していた。

 それは、その生活のレヴェルに於いてではなく、その家族の心理的な距離の偏頗(へんぱ)性においてである。その原因の全ては、母アマンダにあると言っていい。
 
 ここに、この偏頗な家庭の骨格を象徴的に示す、三つの、およそ会話とはほど遠い親子の絡みの描写を紹介する。
 
 その一つ。
 
 食事する息子の傍らで、母の口うるさい横槍が次々に放たれる。

 「トム、よく噛むのよ。動物には胃の分泌液があるから、咀嚼なしでも消化できるわ。でも人間は飲み込む前に噛まなきゃ。噛んで・・・噛むのよ。ゆっくり食べて・・・ゆっくりとね・・・唾液腺を働かすのよ」
 「母さん!ちっとも食べた気がしない。横からいちいち指示するなよ。僕が急ぐのは、母さんがタカのように見ているからだ。ひと口ごとに・・・もうウンザリだ。食欲がなくなるよ。動物の分泌液やら、唾液腺だ、咀嚼だって・・・」
 
 このようなタイプの母親に近い女性は、世にごまんといるかも知れないが、咀嚼の度に講釈する母親は滅多にいないだろう。

 こんな講釈が成人となった息子に垂れ流されている事実から、これまでの母子関係の心理的文脈の偏頗性が容易に覗える。当然の如く、息子トムは、自我の拠って立つ安定の根拠を家庭の内に求めていない。心から望むことのない仕事から戻って来たトムの心を解き放つのは、自室にこもって詩作に耽る事と、夜な夜な外出して映画を観たり、酒で憂さを晴らしたりすることである。このエピソードによって、観る者はトムへの感情移入を容易にするだろう。
 
 二つ目の会話は、そんな息子に母が愚痴をこぼす場面。

 散々愚痴を零しても外出しようとする息子に、この日も母は切れた。
 
 「我慢の限界よ」

 息子もそれに反応する。

 「僕だって我慢しているんだ。母さんは平気だろうけど、今の僕と僕の望みは少々違うんだ」

 息子の気持ちを一貫して理解する態度を見せない母は、この日もまた恐らくいつものように、倍返しの反論をする。と言っても、二人の間に議論は成立しない。そこには口喧嘩しかないからだ。

 「クビになって、私たちを路頭に迷わす気?」

 母にとってトムの存在は、アパートの家賃を払ってくれる唯一の稼ぎ手以外の何者でもないかのようだ。

 「会社の倉庫が大好きだと思うのか?・・・あんな穴倉で一生過ごしたいはずないだろう・・・でも僕は行く。毎朝母さんが来て、“起床!”ってがなる。僕はどんなに死人が羨ましいか。だが起きて出勤する。たかが月65ドルのために、自分の夢や望みをみんな捨てて。それでも僕は自分勝手か?もしそうなら、父さんの真似をする。できる限り遠くへ行く」

 この最後の言葉は、母の自我の防衛ラインに触れたに違いない。

 一家の父は既に出奔して、今や家族の一員ではない。妻子を捨てた父の無責任な行動の原因に、母の存在が絡んでいることは充分読みとれる。息子もまた、そんな父の後をなぞっていくかも知れない。それが単なる脅しではないからこそ、母は「謝って来るまで口を聞かない」と突き放すことで、息子の言葉の担保を性急に求めたのである。

 しかしこの夜も、息子は母の制止を振り切って夜の街に出て行った。

 泥酔して帰宅した弟をローラは優しく迎え、お母さんに謝って欲しいと懇願する。それが内気なローラの、家庭での役割の一つだった。

 翌朝、再びローラに促されて、トムは部屋にこもる母のもとに行き、素直に謝った。

 「あなただけが頼りなの。本気で頑張ればきっと成功するわ・・・」

 息子の謝罪に安堵した母は、いかにも親らしく括って見せたが、その内心は、家庭を捨てた男にますます似てきた息子の行く末を、不安視する思いに充ちていたであろう。


 三つ目の会話は、母と娘のそれである。
 
 ビジネススクールに通っていたはずのローラが、通学していないことを知った母は、息子に対してそうだったように、今度は娘を問い詰めていく。

 「毎日何をしていたの?学校行く振りをして」
 「散歩してたの」
 「嘘おっしゃい」
 「本当よ。ただ歩き回ってたの」
 「歩いてた?冬の最中に?肺炎にでもなるつもり?どこを?」

 母の言葉には、どこかでいつも少しずつ毒素が含まれている。

 「方々よ。よく公園に行ったわ」
 「風邪を引いてからも?」
 「学校に行くよりマシだわ。戻れなかった。教室で吐いたの」
 「・・・学校にいると思わせて外をうろついていたのね」
 「辛くなかった。寒いときは建物に入ったし。美術館に行ったわ。動物園の鳥の家にも。ペンギンを毎日見たわ・・・」

 母のどのような詰問にも、娘は静かに反応していく。

 弟の中にあって、姉にないもの、それは自衛のための攻撃性である。母には、そのことが却って悩みの種になっている。娘の過剰な内気さが、母の感情をしばしば刺激してしまうのだ。

 「私を騙すためにやったの?ごまかすために?なぜなの?なぜ、ローラ答えて!」
 「お母さんががっかりすると。マリア様の絵みたいに苦しそうな顔になるわ。それが嫌だったの。耐えられない」

 この意味深な反応の内に含まれているのは、母への皮肉というより、寧ろ、自らの不徳を責める罪悪感情に近いものである。娘の中にも存在するであろう攻撃性は、常に自己を対象にしてしまうのだ。

 「私たち、どうするの?どうやって生きていくの?この家にぼやっと座って、漫然と日を送るの。ガラスの動物園で遊ぼうって言うの?パパが残していった、すり切れたレコードを、永遠に回し続けるの・・・仕事には就けないわね・・・私たちに残されたのは、一生、人に頼って生きることだけ・・・」

 ガラスの動物園とは、娘ローラが収集している小さなガラス製の動物のことである。彼女は、父が残した古いレコードを鑑賞することと、このコレクションを趣味にしているが、とりわけ、母が揶揄する「ガラスの動物園」の世界は、ローラの心象風景を象徴するものとして重要な意味を持っている。

 それは、ローラの自我の壊れやすさを表現していると言っていい。

 そこに接触しただけで壊れてしまいそうなガラスの動物を、そこに侵入しただけで壊れそうな自我が、何よりも大切に守り、育てているのだ。ローラの思いが、一つ一つの可愛い動物たちの無機質な透明体の内に、永遠の生命を吹き込んでいく。そんな細(ささ)やかな幻想の遊泳だけが、彼女の自我のプライドラインを支えているかのようである。

 
(人生論的映画評論/ガラスの動物園('88) ポール・ニューマン   <ロウソクを消せ、ローラ>)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2008/12/88_07.html