この国の「闘争心」の形

1  序 ―― その場凌ぎのリアリズム


 この国では、しばしば、結果よりもモチーフの純度こそ評価される傾向があるという指摘は多い。
 
 極端に言えば、この国では「何をしたか」によってではなく、「何をしようとしたか」によって人間の価値が決まるのであり、そのプロセスでの真摯で、利他性の高い健気な努力こそが評価の重要な尺度になるのである。

 そしてこのことは同時に、「過程」においての甚大な誤謬も、「結果」における成功性によって簡単に反古にされるという、プラグマティックな心理構造とも同居し得る杜撰(ずさん)さを随伴しているように思えるのだ。即ち、「結果良ければ、全て良し」という心理文脈である。

 これは、本質的に闘争者のカテゴリーではない。

 闘争者はビクトリ―を終局の目標にするから、モチーフやプロセスなどが戦利品の価値を越えることがないのだ。闘争者にあっては、ただ戦利品の質量だけが価値を持つのである。

 そこでは、モチーフとプロセスは従属価値でしかないのだ。それ故にこそ、闘争集団のリーダーに求められる第一義的資質は、沸騰した状況であればあるほど、闘争者がウィナーとなり得る指導的能力をより多く有しているかいないかという一点にこそ限定されるので、まかり間違っても、人間性とか、人の好さだけで選ばれたりはしないのである。単にそれらの資質は、闘争集団をウィナーにさせ得る条件として、矛盾する要因にならない限り支持されるレベルの価値でしかないということだ。
 
 
(心の風景 /この国の「闘争心」の形)より抜粋http://www.freezilx2g.com/2009/03/blog-post.html(2012年7月5日よりアドレスが変わりました)