父と暮らせば('04)  黒木和雄 <内側の澱みが噴き上げてきて>

 この映画は、「見えない残酷」を見せられた挙句の果てに生き残った自我が、その内側に澱むものを束の間洗浄するかのようなときめき感情のうねりの中で、その「残酷」を見せられて解体された者たちへの贖罪意識と、それを未来の時間の内に昇華させていくまでの内的過程を、些か小奇麗な筆致と巧みな演出によって、鮮烈に記録された「絶対反戦」の一篇である。

 そして、この作品が見事だったのは、親子の会話という形で具象化された一個の自我の内的葛藤の描写のみで、「見えない残酷」がもたらした歴史の凄惨なる闇を、鮮烈なまでに浮き彫りにさせてしまったところにある。

 今にも切り裂かれそうな魂の再生への希望と、その魂を切り裂いたものへの静かな怒りが、狭隘な空間を舞台にした映像の内に離れがたく繋がって、十字架を負う者の幸福を優しく拾い上げようとする視線が、二人芝居の強靭な表現力の内に随所に揺蕩(たゆた)っていて、ここに映像が記憶し得る、マキシムなメッセージ効果を刻印したのだ。

 映像の主人公が背負った十字架の重さは、三層になっている。

 一つは、「見えない残酷」を見せられたことによって、その肉体が記録した絶対的な疾病。二つ目は、それでもなお生き残った主人公が、既に解体された者、とりわけ父親に対するあまりに重い贖罪意識、三つ目はそれでも手に入れた幸福を未来に繋ぐとき、同時に、「見えない残酷」を見せられた者としての語り部であることの、その不可避なる重責感であると言えようか。
 
 恐らく、この映像の主人公美津江は、自らが負った十字架を彼女なりに引き受けて、この国の戦後史をしたたかに生き抜いていくだろう。

 彼女があのとき、有無を言わさずに見せられた、「見えない残酷」の圧倒的な痕跡を自らの身体の内に刻み付けて、そこから発信される、それ以外にない固有な表現によって、彼女は一個の絶対的な語り部として、歴史の闇に決して逸(そ)らしてはならない眼光を照射し続けるに違いない。

 なぜなら彼女には、十字架を共に背負ってくれる、極めて頼もしい同志がいる。木下という名の、固有なる同志がいる。そのとき、二人が背負う十字架は、ちょうど背負うに足る重さとなって、彼らの若い身体を、ほんの少し前に進めていく律動を約束するものになったのだ。

 この映画は、贖罪で悶える一人の女性が生涯の伴侶となるであろう青年と出会って、その青年の愛を受容していくまでの物語であるが、同時に、その青年との間に結ばれた絆の強さによって、始まったばかりのこの国の戦後史に、彼らなりの固有の軌跡を描いていく未来のイメージまでをも暗示して、一貫して静謐だが、しかし厳しい問いかけを観る者に残して、繊細なる映像を完結させた。

 一人の女性の僅か四日間の、深々と内側を抉っていくような、苛酷なる自己葛藤。とりわけ、その後半の二日間の重い映像は、観る者の内面に深く迫っていくような、情感描写の炸裂以外の何ものでもなかった。

 手を伸ばせば届くところにある幸福を、ダイレクトに掴みとれない感情の重さの中で、内なる煩悶を吐き下し、吐き下し、なおそこに張りつく心の傷を自ら炙り出して、それでも折り合いの付けられない焦燥と不安の内に、死に臨む父親の最後の、搾り出すようなメッセージを自らの魂に繋いだとき、そこに未だ色彩の見えない未来の扉を、何とか抉(こ)じ開けるだけの腕力が生き残っていることを証明してみせた。そんな映画だった。



(人生論的映画評論/父と暮らせば('04)  黒木和雄 <内側の澱みが噴き上げてきて>)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2008/12/04.html