山里郷愁

 特に生活上の懸案の課題もなく、切迫した心理状態とも無縁で、それでも、そこに日常性への小さな倦怠感のようなものが、ふっと内側から湧き起こったとき、私は、それ以外にない選択肢という自在な枠組みの時間の中に入っていくことが多い。

 そんなとき、私は大抵、カメラを持って外に出る。

 中古の自転車を乗り回して、キャベツやブロッコリー畑などが其処彼処(そこかしこ)に広がる、自宅兼用の職場がある西大泉の界隈を走り回る。

 季節はいつでも良かった。

 走り回っているうちに、いつしか大泉地区を離れ、北多摩や新座の一帯にまで我が身を運んでいる。

 多くの場合、いつも見た風景を視界に収めるだけだが、時折り、原色の色彩が眩い草花が視界に捕捉されると、たまらずに走り寄って、写真を撮り捲る。

 写真として成功する確率は低かったが、それでも良かった。

 そんな心境下の延長上に、「今度、時間が空いたら奥武蔵に行こう」などと想いを馳せるのも自然の成り行きだった。

 そして、殆どその想いを実行する。

 下りの西武池袋線に乗って、何とも言いようのない郷愁を誘(いざな)って止まない、奥武蔵の風景と出会うまで電車を降りない。

 高麗から西武秩父に至るまでの8箇所の駅の、いずれかの特定スポットで下車して、そこで山里の徘徊を存分に愉悦する。

 それが、私にとって最大のセラピーであり、癒しでもあった。

 奥武蔵の山里の集落に抱かれて、そこで繰り返し出会いながらも、季節の花々との一期一会の邂逅という気分を存分に嗅ぎ取っていると、もやもやした思いが浄化され、無性に心が騒ぎ出すのだ。

 本格的に、このような山里徘徊を始めてから十数余年の間、何度私は、そこに足を運んだだろうか。

 学習塾が始まる午後4時までの間に帰宅すればいので、それまでの時間を自在に活用して、それを私の「仕事」への細(ささや)かな活力源にしていく。

 ここで紹介している画像の多くは、全て私のそんな山里徘徊の所産である。

 四季折々の草花が鮮やかに彩る奥武蔵や秩父、更に足を延ばして、山梨辺りにまで行動エリアを広げると、そこには、常に一期一会の風景が待っていてくれる。

 その思いが、いつでも私を駆動させるのである。

 私にとって、「山里郷愁」のルーツは、奥武蔵の徘徊にあると断言できるだろう。

 「思い出の風景」のルーツとなっていると言い換えてもいい。

 それほど、私は奥武蔵の集落が大好きなのである。

 
[ 思い出の風景 山里郷愁 ]より抜粋http://zilgf.blogspot.com/2011/11/blog-post.html