恋する惑星('94) ウォン・カーウァイ <女性によって支配された「恋の風景」の、お伽話として括り切った映像の訴求力>

 1  ギリギリのところで掬い取られた、「失恋の王道」を行く者が占有し切れない物語の哀感



 大人の恋を精緻な内面描写によって描いた「花様年華」(2000年製作)と異なって、「恋の風景」を描いた映画の中で、これほど面白い映画と出会う機会もあまりないと思わせる本作を、一貫して支配しているのは女性である。

 本作の風景を、より正確に言えば、失恋に懊悩する男か、それに近い心理の渦中にある男に対して、雑踏の街の只中で自由に呼吸を繋ぐ女たちが物理的、或いは、心理的に最近接したことで仮構された「恋の風景」の物語である。

 物語の風景の根柢を作る女たちが、男の心理的風景を翻弄し、突き動かしていくという「恋の風景」の変容の微妙な様態が、件の男たちの心理的風景を支配し切っているのである。

 「雑踏ですれ違う見知らぬ人々の中に、将来の恋人がいるかも知れない」

 これは、物語の前半の主人公であった、若い刑事モウの冒頭のモノローグ。

 25歳の若い刑事モウは、彼が切望する「恋の風景」の幻想を置き去りにした女に支配され、「恋の風景」に関わる中枢の物語を最後まで占有し切れないのだ。

 若い刑事モウが負った、殆ど絶望的な失恋の痛手が辿り着いた先に待機していたのは、自分の誕生日が賞味期限となる1か月間にわたって、パイ缶を買い続けるというチャイルディッシュだが、このような精神状態に搦(から)め捕られたら相応の説得力を持つと思わせる、験担(げんかつ)ぎを止められない行為に象徴される、「恋の賞味期限」という切実な心理的風景だった。
 そんな自棄的な男の行動を惹き寄せるように最近接したのは、金髪にサングラスという出で立ちを有するドラッグ・ディーラーの女。

 ところが彼女は、男の切望する「恋の風景」と全く重なり合うことのない、「生きるか死ぬか」といった、ダークサイドな物理的風景の渦中を遊泳しているから、蠱惑(こわく)的な「恋の風景」の芳香を自給することはない。

 そんな女に翻弄された挙句、一人寂しくホテルを退散する若い刑事の「恋の風景」には、その心の空洞を埋めるに足る何ものもないペシミズムが漂っていた。

 当然ながらと言うべきか、「恋の風景」の幻想から置き去りにされたバックラッシュで、「将来の恋人」との出会いをギャンブルにしてしまった男と物理的に最近接しながらも、相互の心理的風景は全く折り合うことのない陰惨さを晒して見せたのである。

 それでも、見事な袈裟切りに遭って、「失恋の王道」を行く若者には、麻薬密売で裏切られ、殺人事件を犯して逃走中の、件の「悪女の深情け」のサービス精神に縋るしかなかったというオチが、最後に待っていたのが、前半部の物語を貫流する「恋の風景」の陰翳感を相対化するシーン。

 若い刑事モウが、今や使用価値なきポケベルを捨てたとき、格好のタイミングで飛び込んできた、「誕生日おめでとう」という金髪女からのメッセージ。

 それは、「失恋の王道」を行く若者にとって、「恋の賞味期限」という切実な心理的風景に、一陣の涼風を呼び込む心地良きメッセージだった。
  思うに、前半部の「恋の風景」を支配したのは、不在なる失恋相手であったが、その若者の心の空洞を埋めたのが、ダークサイドな物理的風景の渦中を遊泳している金髪女であったというオチこそ、「失恋の王道」を行く者が占有し切れない物語を、ギリギリのところで掬い取るものだったのだ。

 この一陣の涼風の漂流感が、本作で描かれた「恋の風景」が、より鮮明な意志を持って、後半部の物語の中に引き継がれていく。

 従って、映像構成の変容は、「恋の風景」を明るく彩ることで、男と女の恋に纏(まつ)わる微妙な心理の機微がユーモア含みに拾われていくのである。
 
 
 
(人生論的映画評論/恋する惑星('94) ウォン・カーウァイ <女性によって支配された「恋の風景」の、お伽話として括り切った映像の訴求力>)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2011/11/94.html