セブン(‘95)  デビッド・フィンチャー <「人間の敵は人間である」という基本命題を精緻に炙り出したサイコサスペンスの到達点>

イメージ 11  映像を支配する男の特化された「心の風景」



一人の男が映像を支配している。

その名はジョン・ドゥ。

無論、仮名である。

アメリカで実施されている「ジョン・ドゥ起訴」(注1)という概念によって表現されているように、「ジョン・ドゥ」とは、単に「氏名不詳」という意味でしかない。

このジョン・ドゥが支配する世界は、この男が惹起した猟奇的連続殺人事件によって、それを追う二人の刑事が、闇の中の限定スポットを懐中電灯で弄(まさぐ)る光線の青や、連日の雨天の冥闇(めいあん)の構図に象徴されるように、どこまでも深く澱む事件の異臭が放つダークサイドな風景を作り上げているのだ。

それは、ジョン・ドゥと称する男が支配する映像の、特化された風景なのである。

この特化された風景は、最後まで映像を支配する男の「心の風景」であると同時に、件の男によって支配され続けた二人の刑事の、貯留されたディストレス状態を象徴する「心の風景」でもあった。

そして、この特化された風景が、男の自首という、「確信犯」の「確信的行為」によって、一方は過緊張、そしてもう一方は、究極の「殺人ゲーム」の中で対峙してきた両者の、その対極的な「心の風景」の極限にまで辿り着くことで、突如、眩く照り付け、アースカラーに彩られた、どこにも逃げ場のない乾いた大地を呑み込むような、異様にギラギラした太陽光線に捕捉される風景に変容するのだ。

それは、特化された風景を変容させた「確信犯」の自己完結点が、その「確信犯」の「確信的行為」のうちに晒された、理不尽極まる猟奇的連続殺人事件の終結点と重なることで、事件を追い続けた二人の刑事の理性を襲撃したばかりか、一方の刑事の自我を破壊する極限の様態を炙り出してしまったのである。

震え、慄き、叫喚しつつ、究極の「殺人ゲーム」を自己完結させた男を撃ち抜き続けた青年刑事は、男が描いたシナリオをトレースしていくのだ。

その結果、最後まで「確信犯」の「確信的行為」のルールを貫徹した男の、常軌を逸した猟奇的連続殺人事件の自己完結点のうちに、とうてい言語化し得ない現実を白日のものに晒された青年刑事の自我破壊され、無傷で生還できなかった者の悲哀の極限を露わにされてしまったのである。

一切が白日のものに晒された、このラストシークエンスの破壊力は、映像それ自身が放つ破壊力と化して、観る者の「心の風景」を拉致するパワーによって、物語の結末を知っていてもなお圧倒的な訴求力を持つに足る、サイコサスペンスの一つの到達点を極めてしまったようだ。
 
後述するが、それは本作が、「何のために我々は生きるのか」という、「実存」の有りように関わる作り手の問題意識が、ジョン・ドゥと称する男が支配する映像の中で翻弄され続けた二人の刑事の、その苛立ちや過緊張の振舞いを通して描き切れていたからに他ならない。
 
 
 
(人生論的映画評論・続/セブン(‘95)  デビッド・フィンチャー <「人間の敵は人間である」という基本命題を精緻に炙り出したサイコサスペンスの到達点>)より抜粋http://zilgz.blogspot.jp/2012/10/95.html