ヤコブへの手紙('09) クラウス・ハロ<「映画の嘘」の自在性の中で暴れ過ぎてしまった物語 ―― 感動譚の軟着点ありきという、ラストシークエンスに収斂される御都合主義の映像構成>

 1  内面的に必要とする他者の存在を感受していない中年女と、内面的に必要とする他者の不在を認知せざるを得ない老牧師の物語



 自己の人格的存在性を、内面的に必要とする他者の存在を感受していない継続的な心的現象の有りよう ―― 私は、この狭義な定義を「孤独」と呼んでいる。

 それは、内面的に必要とする他者の存在を否定できなくとも、本人が感受していなければ、その者は「孤独」なのである。

 本作で描かれた二人の人物の物語を、「孤独」という概念で説明するならば、以下のように括られるだろう。

 即ち、内面的に必要とする他者の存在を否定できないにも拘らず、本人が、その事実を継続的に感受していない中年女=レイラと、内面的に必要とする他者の存在を感受することで、それを生き甲斐にしている老牧師=ヤコブとの関係を通して、内面的に必要とする他者の存在を認知することによって、「孤独」の深い闇から脱却し得た前者が、内面的に必要とする他者の存在を感受していたという幻想が、「どれも私のためだったんだ」という現実に晒されることで、内面的に必要とする他者の不在を認知せざるを得ない心的現象に搦(から)め捕られた、後者の自我の最大の危機を「小さな奇跡譚」の挿入によって、その最期を看取り、新たな人生を起動させていく物語である。

 「孤独といふのは独居のことではない。独居は孤独の一つの条件に過ぎず、しかもその外的な条件である。むしろひとは孤独を逃れるために独居しさへするのである。隠遁者といふものはしばしばかやうな人である。孤独は山になく、街にある。一人の人間にあるのでなく、大勢の人間の『間』にあるのである」(三木清 『人生論ノート』 新潮文庫) 
 これは、三木清(画像)の有名な孤独論の一節。

 まさに言い得て妙な表現だが、本作の二人の人物の場合、殆ど、「街」という空間と無縁な片田舎で「独居」している老牧師と、獄舎という「異界」で、大勢の人間の「間」にあう印象を持ちにくいが故に、「独居」していたように見える中年女の「孤独」の様態が映像提示されている。

 ところが、本作で映像提示されている、二人の人物の係り合いの物語に対する私の評価は、幾つかの点において受容し得ない一篇になっている。

 「映画の嘘」の自在性の中で暴れ過ぎてしまっているからだが、本稿の批評は、この点についての瑕疵が中心となる。
 
 
(人生論的映画評論・続/ヤコブへの手紙('09) クラウス・ハロ<「映画の嘘」の自在性の中で暴れ過ぎてしまった物語 ―― 感動譚の軟着点ありきという、ラストシークエンスに収斂される御都合主義の映像構成>)より抜粋http://zilgz.blogspot.jp/2012/03/09_21.html