それでも人は生きていく  文学的な、あまりにも文学的な

 どれほど辛くても、これをやっていれば、少しは辛さを忘れられるというレベルの辛さなら、軽欝にまで達していないのかも知れない。


 忘れられる辛さと、忘れようがない辛さ。

 辛さには、この二種類しかない。

 楽しみを持つことで辛さを忘れられる者を、「躁的防衛者」と言う。

 多くが、この類の人々だ。

 辛さを忘れるためだけの娯楽を決して揶揄してはならない。

 それを揶揄するほど私たちは強かったのか。

 文化の存在価値の一つがそこにあることを、私たちは安直に否定すべきでない。

 私たちは実際のところ、まだ死にたくないから生きているだけなのかも知れない。

 その事実の重量感を、決して粗略に扱ってはならないのだ。

 だからこそ、辛さの忘却が不可避なのだ。

 雄々しく立ち上げることだけが人生の輝きではない。

 辛さと娯楽を内側で安定的に共存させる能力の高さこそ、幸福をミスリードしない者の小さな輝きなのだ。

 それでも人は生きていく。

 とりあえず、今、死んだら困るから生きていく。

 死ぬに足るだけの理由がないから生きていく。

 時代の、眼に見えない移ろいの中で生きていく。

 始まりがあって、終りがある。

 そこに取るに足らないことしか起こらなくても、円環的な日常性を巡って、巡って、巡り抜いて、それでも、そこにしか辿り着かない時間の海を漂流するようにして、一時(いっとき)の心地良さと出会うために生きていく。

 人生は所詮、なるようにしかならないのだ。

 
(心の風景  /それでも人は生きていく  文学的な、あまりにも文学的な  )より抜粋http://www.freezilx2g.com/2012/05/blog-post_161.html(7月5日よりアドレスが変わりました)