病院で死ぬということ('93)  市川準  <「家族愛」という「究極のロマンティシズム」>

  1  激痛や苦悶の喘ぎを拾わない映像への違和感



 ここに、この映画のエッセンスを説明する最も重要な言葉がある。

 本作の舞台となった病院で、ターミナルケアという究極の医療に関わる山岡医師のモノローグである。

 「池田(注)さんが、自宅に帰りたいと言い出したとき、私はその気持ちがよく分りました。末期状態においては、彼女の意志は何よりも優先されるべきだと思いました。・・・・病院とは、不思議な場所だと思います。当たり前のことですが、この場所は、その人の人生に、最初から必要とされていた場所ではないということです。・・・・私たち医療者は、その人の人生の過程に、突然登場し、その人の前に大きく立ちはだかってしまうように感じることがあります。・・・・『死』を自覚した人の前で、私たちに願うことが許されるとしたら、矛盾した言い方のようですが、この場所が『死ぬための場所』ではなくて、『生きるための場所』であることを、最後のときまで感じて欲しいということです。自分の意志で、自分の『死』を取り戻す場所であって欲しいということだと思います」


(注1)本作の患者の一人である、池田春代のこと。60歳の彼女は、自分が末期癌であるという事実を知らず、入院当初は周囲に元気を振り撒いていたが、二度の手術を経ても病状が改善しない現実に苛立ち、喚き出すに至ったことで、遂に意を決して、山岡は彼女に真実を告知する。このモノローグは、その直後のシーン。


 「自分の意志で、自分の『死』を取り戻す場所であって欲しい」と語る、以上の山岡医師のモノローグに説明されているように、この映画では、病院という非日常の世界の本質が端的に表現されている。

 病院とは、その空間と無縁な人々の日常性の風景と切れた、非日常の時空以外の何ものでもないのだ。

 フェードインとフェードアウトを反復する本作の中で、度々、挿入されるシーンがある。
それは、病院とは無縁であると信じる世界で呼吸している人々の、ごく普通の日常性の風景である。

 その中で、笑みを浮かべて街路を歩行する人、自分の仕事に専念する職人や会社員、日常性の延長にあるレジャースポットにおける家族団欒の風景、そこに自然の変化と色彩が季節感を表現し、人々の日常世界の風景が淡々と映し出されていく。

 それらの日常的な風景の挿入によって、「その人の人生の過程に、突然登場し、その人の前に大きく立ちはだかってしまう」病院という名の、閉鎖系の空間の異質性を相対化させていくことで、ターミナルケアのスポットで呼吸する人々の非日常性を、本作は繰り返し繋いでいくのである。

 ターミナルケアのスポットで呼吸する人々は、その固有名詞が包含する存在感以上の意味付けによって、一様に「患者」と呼ばれ、その「患者」たちの非日常の営為が淡々と語られていく。

 無限の広がりを持った日常世界が営々と繋がっている、外部世界から侵入してくる心地良き風を受けて、物欲しそうに窓外を振り返る「患者」は、かつてそうであり、今もそうであらねばならない固有の日常性を想念し、その世界への生還を切望しながらも、「医師」、「看護師」、PT(理学療法士)、OT(作業療法士)や、その他の医療関係者が常勤する特殊な密閉空間の中で、そこで必要とされる薬剤を処方され、しばしば、自らの身体が抱えた疾病の悪化に起因する外科手術を受けるのだ。

 それでも「患者」と呼ばれる人々は、「絵画の静物のように、気持ちよくおさまったフルサイズのベッド」(後述するシナリオからの言葉)を住み処として、その非日常の時空で呼吸をする人々に共通する心的現象、即ち、最適適応を困難にする疾病状態の中で揺動する内面の葛藤や不安、恐怖などが、ワンシーン・ワンカットの画面が静かにフェードアウトされるまで、その呼吸音の波動を乗せて、観る者に伝えられる。

 そういう映像なのだ。
 
 
(人生論的映画評論/病院で死ぬということ('93)  市川準  <「家族愛」という「究極のロマンティシズム」> )より抜粋http://zilge.blogspot.jp/2010/02/93.html