人間の尊厳とは、自らの〈現存在性〉と折り合うことである


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1  尊厳的な価値を自らのうちに見出せない〈現存在性〉の奥深い闇
 
 
レコンキスタイスラム教徒からのキリスト教徒のイベリア半島奪回運動)以降、国民の約70%がローマ・カトリック教のスペインに、かつて、ラモン・サンペドロという人物がいた。
 
Wikipediaでは「尊厳死活動家」と紹介されている
 
尊厳死活動家」という紹介の通り、首から下が完全麻痺で、26年間の寝たきり生活と、耐え難き精神的・身体的苦痛のため尊厳死を望み、自殺介助者との出会いによって青酸カリを服用し、現世(げんせ)に悔いを残すことなく自殺した。
 
1998年1月12日のことである。
 
スペイン内戦で政権を掌握したフランコ体制崩壊後、カトリックの強制的教育が緩み、民主化への軟着陸の行程と相俟(あいま)って、近年、ローマ教皇庁の保守的な道徳の教理に依拠する反対勢力や、敬虔な信仰運動・「リバイバル運動」、更には、カルロス1世の「王政復古」の流れをも押し切って、ミサ(最後の晩餐を再現する、カトリック教会で最も重要な典礼儀式)にも参列しない若者たちの、避妊具の使用・同性婚の解禁に典型的に現れているように、政教分離の思想が進んでいる立憲君主制国家のスペインだが、欧米の大半の国が尊厳死を認めている現実の中で延命治療の中止を認可しても、さすがに、自殺幇助をも許容する「尊厳死」には高いハードルがある。
 
ラモン・サンペドロは、この高いハードルを一気に乗り越えたことで、世間の耳目を集めるに至った。
 
ここに、映画のモデルとなった実在の人物、ラモン・サンペドロの手記がある。
 
その手記の表題は、「"LETTERS FROM HELL"」(「地獄からの手紙」)。
 
20代半ばに、自宅近くの岩場から引き潮の海に飛び込み、浅瀬の海底に強打し、脊髄損傷による四肢麻痺患者になったラモンの手記は、まさに、「地獄からの手紙」以外の何ものでもない精神世界を負っていくことになった。
 
「地獄からの手紙」は、自らの身体の解体を、尊厳死によって終焉させようとする手立てとしての安楽死を渇望する者の、その魂の叫びであり、それについての深い形而上学的な考察の一篇である。
 
ラモン・サンペドロは、そこで明瞭に書いている。
 
「死という選択肢 ―― 生きることの価値。それは、人間の感情を左右するさまざまな事柄に出くわしたときに、精神と肉体が快く一致し、調和しているという認識そのものにある。しょせん人は、死の恐怖から逃れることはできない。だから、生きることが苦痛になったとき、そこから解放されるための選択肢は、論理的にいって死以外にないのだ。生きることの価値が失われ、残るのは混沌のみだとしたら、再生に向けた唯一の活路は物質の解体だけなのである」(『海を飛ぶ夢』ラモン・サンペドロ著 アーティストハウス刊)
 
同時に、この著作は、彼の望みを奪う者たちへの激しい怒りの記録でもある。
 
彼は、死を望む四肢麻痺患者に鎮痛剤を投与する医療に対して激しく糾弾する。
 
「そうして苦痛でのた打ち回るたびに、鎮痛剤の投与量が増やされていくのだ。これでは、患者の意識の自由など、おかまいなしではないか!こうして人は『社会復帰』させられ、飼い慣らされていく。要するに、受け入れろ、さもなくば狂え、というわけだ」(同上)  
 
一貫して、このラジカル(根源的)な手記は、長きに渡る彼の〈生〉と〈死〉に関する考察であり、そこで結論付けられた安楽死への強靭な意志を連綿と綴った、そのマキシマムな感情の表出だった。
 
しかし、そこには、彼の日常性の記録がすっぽりと欠落していた。
 
彼にとって、日常性への記述よりも、なぜ、自分が安楽死を望むのかという形而上学的、且つ法的根拠を、縷々(るる)、記述することの方が遥かに切実だったのである。
 
言うまでもなく、この「地獄からの手紙」をベースに映画化されたのが、のちにコーエン兄弟の「ノーカントリー」で、一気に、その存在感を圧倒的に決定づけたスペインの名優・ハビエル・バルデム主演の「海を飛ぶ夢」。
 
アザーズ」で観る者を煙に巻いた、映像の作り手・アレハンドロ・アメナーバルは、その脚本化に当って、ラモンの家族の入念な取材を果たし、その家族の承諾を得て実名の映像化に踏み切っている経緯を考えれば、この原作に相当触発されたと考えられる。
 
監督自身は、実話をベースに、そこに多分に創作性を持たせた映像を作り上げたと語っている。
 
しかし、日常性の記述がないラモンの原作に創作性を加えた映像を作っても、そのまま、ラモンの〈生〉の真実を投影されたものにはならない。
 
「地獄からの手紙」の中で、ラモンが日常性に言及しなかったのは、それ以上に訴えたい何かが、彼の中に貯留されていたからに過ぎないのである。
 
では、ラモンにとって、何が至要(しよう)たる問題だったのか。
 
脊髄損傷という完治不能の疾病によって、身体の絶対的自由を奪われた現実それ自身と、たとえ相手が、自分に対して善意でアプローチしてきても、他者の介助によってしか成立しない自分の〈存在性〉を保障するために、しばしば、心にもない微笑によって反応せざるを得ないような関係の隷従性の意識と、更にそのことが、人間が人間であることの尊厳的な価値を自らのうちに見出せなくなったという、まさに、その〈現存在性〉の問題であったと考えられる。
 
しかも、この苦渋な時間が30年近く続いたのである。
 
その限りなく拷問のような時間の荒波に諍(あらが)う術もなく、彼は尊厳死を切実に求めたのだった。
 
恐らく、それは時の流れと共に膨れ上がっていって、もう、自分では制御し切れないほどの慟哭(どうこく)を堆積してきたに違いないのである。
 
だからこそ、映像は、その堆積してきた慟哭の重みを描き出さねばならなかった。
 
そこにこそ、尊厳死の問題の最も奥深い闇がある。
 
残念ながら、映像は、尊厳死の最も奥深い闇に届かなかったと、私は捉えている。
 
 
2  人間の尊厳とは、自らの〈現存在性〉と折り合うことである
 
 
海を飛ぶ夢」という映像から離れて、ここでは尊厳死の問題に言及してみよう。
 
尊厳死とは、そもそも、一体、何なのか。
 
一言で言えば、人間が人間としての尊厳を保って死に臨むことである。
 
ここで言う尊厳とは、「人間らしさ」を保持している状態を意味する。
 
では、「人間らしさ」とは何か。
 
手に負えないほど難儀な概念だが、私はそれを「自我が精神的、身体的次元において、統御可能な範囲内にある様態」という風に考えている。
 
例えば、耐え難いほどの肉体的苦痛が継続するとき、間違いなく自我は悲鳴を上げ、その苦痛の緩和を性急に求めるだろう。
 
しかし、その肉体的苦痛の緩和が得られず、且つ、その状態が延長されると諦念(ていねん)する時、私たちのセルフコントロール能力は抑制力を失い、破綻の危機を迎える。
 
人間の精神的資源には限りがあるのだ。
 
これを「自我消耗」と言う。
 
身体の四肢麻痺状態が、その身体の死に及ぶまで永久に続くことが回避できなければ、その患者は、自分の身体の介助を他者に絶対依存しない限り、その生存の保障はない。
 
他者への絶対依存なしに生存の保障がないという現実それ自身が、私たちの精神的資源を枯渇させ、「自我消耗」を極めてしまうのである。
 
その患者は、自らの身体の全身清拭(せいしき)を他者に依存するばかりか、排泄の全面的な介助をも求めざるを得ない。
 
カテーテル(体液の排出などに用いる細い管)による排尿を世話してもらい、糞便の処理まで依存することになるのだ。
 
たとえそこに、相手の善意を感じ取ることができたとしても、「絶対依存」とも言える、その〈現存在性〉を何十年も継続させてきて、機能を失った殆ど別の物体と化した自己の身体に、一貫して馴染むことができず、更に当該自己が、それ以前から仮構してきた自己像との矛盾を克服できないとき、私たちはそこに、自らの人格としての尊厳を受容することが可能だろうか。
 
「人間らしさ」の喪失とは、以上の例で明瞭である。
 
即ちそれは、自我が自らの〈現存在性〉と折り合うことができない状態のことである。
 
まさに、その折り合いのレベルこそが、人間の尊厳の度合いであると言っていい。
 
私たちが人間の尊厳について定義するとき、どうしても、そこに抽象的なニュアンスが含まれてしまうのは、個々の尊厳観が微妙に異なり、極めて、その相対度が高いからである。
 
そこにこそ、尊厳死の問題の難しさ・深淵さがあるのだ。


心の風景  「人間の尊厳とは、自らの〈現存在性〉と折り合うことである」よりhttp://www.freezilx2g.com/2018/06/blog-post.html