ぐるりのこと('08)  橋口亮輔 <決め台詞なき映像を支配したもの>

イメージ 11  予約された「日常性」が裂けていくとき



1993年冬

「週3日?」

出版社の同僚を驚かせる場面によって開かれるヒューマンドラマの幕は、その同僚を驚かせた女の天真爛漫な高笑いを大写しにさせていく。

およそ不幸とは無縁な印象を与える本作のヒロインが、開かれた映像の中で、出会い頭に、夫婦の「する日」を語って見せたのである。

同年7月。

テレビマンである先輩の夏目から、カナオは「法廷画家」の代役を引き受けることになった。

お蔭で妻との「する日」の時限に後れを取ってしまったのである。

当然、本人にも「する気」がない。

しかし、妻はそんな夫の態度が許せないらしい。

「決めたよね」
「決めること多過ぎるからさ…」
「だって、カナオが決めたこと守らないからでしょ」
「妊娠もしてるし、控えたこといいんじゃ…口紅、してよ…こういうこと言うのも何なんだけどさ、家に帰って来てだよ、あのな、バナナ食いながら怒っている女ってさ、どんな手ずりでも勃起しないよな」
「だからカナオが決めた決めた時間に帰って来りゃ、バナナ食べなくて済むの」
「あのな、すればいいと思ってるんだろ、どこかで。そうじゃないの。お持て成しの気持ちを持ってくれって言っているの」

こんな会話が夫婦の間で交わされて、「今は口紅は無理。今度から」と言って、妻は強引に「する部屋」に夫を招くのみ。

「こういう話は、ちょっと、死んでもいいなぁ位の感じが一番いいんだぞ、お前、(横断歩道を)をスキップして渡ろうよ、赤でも。たまには…」
「普通に歩いて渡ろうよ」

結局、この夜もまた、夫婦は普通に歩いて渡ったのである。

この序盤の導入は、本作の白眉と言っていい。

「性」にまつわる夫婦の関係の様態が、ユーモア含みで赤裸々に描かれることで、夫婦の性格とその行動傾向が如実に示されているからである。


以下、その辺りから書いていく。


出版社に勤務する佐藤翔子(しょうこ)が、夫のカナオとの間で「する日」を決め、それをカレンダーに「×」と記す行為の意味するものは、「する日」には「しないこと」が許されない「×」の日であるということを、敢えて夫婦で共有する「欲望系」の、そのネガティブな前線の様態であるということだ。
「普通に歩いて渡ろうよ」という妻の言葉に象徴されるように、このように妻が、本来的に「非日常」の破壊性(注)をも含む夫婦の「性」を、「衣食住」の「日常性」とほぼ同様の位置づけを与え、それを完全に管理する「秩序」の枠内に閉じ込めてしまうという行為は、仮に妻にそのような行為を選択させるに足る夫の「浮気症」によって、これまで経験的に苦労させられてきた経緯があるとしても、夫の欲望の流動的なラインを壊し、そこに人為的な加工を加えることで「夫婦の性の秩序」が保持されるという、極めて自己基準の極北の如き営為であると言わざるを得ないだろう。

そして妻のこのような振舞いの内に、物事を秩序化された時間のサイクルの中で、順序立てて組み立てていって、常に予約された文脈の延長線上に「日常性」が構築されるという把握=幻想があるだろう。

だから、この把握=幻想が自壊してしまったら、「日常性」の律動感をも切り裂いてしまうということだ。

翔子が陥った「ウツという地獄の前線」の様態は、まさにこの文脈に皹(ひび)が入った事態を意味するだろう。

と言うより、このような秩序を構築せざるを得ない「四角四面」の思考の持ち主であるが故に、「日常性」の継続力が失われる事態が惹起してしまったら、彼女の秩序が根柢から壊れ、「ウツという地獄の前線」への深々とした侵入を自己防御し得なかったと言えるのだろう。

それは、予約された「日常性」が裂けていくときの恐怖だった。
 
 
(人生論的映画評論/ぐるりのこと('08)  橋口亮輔 <決め台詞なき映像を支配したもの> )より抜粋http://zilge.blogspot.jp/2009/08/08.html