マンデラの名もなき看守('07) ビレ・アウグスト <千切れかかっていた「善」が、確信犯の「善」のうちに収斂される物語>

イメージ 1 1  千切れかかっていた「善」が、確信犯の「善」のうちに収斂される物語

 
   権力を維持するために行使される、過剰な暴力を是とするシステムに馴染めない「善」と、その権力への自衛的暴力を行使することを指示する確信犯の「善」が物理的に最近接し、そこに心理的化学反応を引き起こす。

拠って立つ理念において、決して折れることのない後者の放つ「善」の圧倒的求心力は、いつしか、洗脳的なラベリングによる、前者の「善」の欺瞞に満ちた身体性を剥落させ、「贖罪感」という名の未知のゾーンにまで引っ張り上げていく。

未知のゾーンにまで引っ張り上げられた男の射程には、男が秘かに望む「同志」の存在は皆無であり、そこには、選択した職業における、「上司」か「同僚」の存在という範疇のうちに収められていただけだった。

確信犯の息子の死に深く関与したことで「贖罪感」を胚胎させた果てに、今や、自分の昇進を望む妻の限定的愛情にのみ縋るしかない男の、その心理的孤立感が行き着いた世界は、拠って立つ安寧の精神的基盤の脆弱性の認知であった。

精神的基盤の脆弱性を晒すことで穿(うが)たれた自我の空洞が、確信犯の「善」が放つ確信的な理念と、その際立って高い道徳的質の集合的価値を内包する、凛とした身体性によって埋められていくに至る。

ほんの少し、「変容する時代」の先にイメージされる理念系の様態は、いよいよ、確信犯の確信的な振舞いのイメージに沿うように進んでいくことを全人格的に視認したとき、過剰な暴力を是とするシステムに馴染めない男は、「この激動の時代に、傍観者でいたくない。歴史の1ページに加わりたい」と妻に言い放った。

なお、男の能力を必要とする権力機関は、一度離れた確信犯との再会を具現させる。

男はもう、逃げられなくなったのだ。

息子の「事故死」に深く心痛する人間性を、全人格的に表現する確信犯と同様に、自分の息子をも喪った男の、千切れかかっていた「善」は、確信犯の「善」のうちに完璧に収斂されるに至るが、そこにはもう、単なる言葉の羅列ではなく、身体化された男の生き方を決定的に反映させる何かに変貌を遂げていたのである。

本作を端的に表現すれば、以上の文脈で説明できるだろう。

これは、千切れかかっていた「善」が、「君たち白人と平和に共存したいだけだ」と放つ確信犯の「善」のうちに収斂されることで、「贖罪感」という名の未知のゾーンにまで引っ張り上げていった挙句、己が人格の奥深くで心理的化学反応を惹起させる物語であり、それによって、自らが負った贖罪感を昇華し、かつて男の過去がそうであったような、黒人の親友との睦みを、成熟した自我の言語のうちに浄化さていく物語でもあった。
 
言わずもがな、確信犯の「善」とは、南アフリカ共和国第8代大統領であるネルソン・マンデラ

そして、過剰な暴力を是とするシステムに馴染めない「善」のモデルは、「さようなら、バファナ」(本作の邦題名)を書いたジェイムズ・グレゴリー。

コーサ語(ウイキによると、国民の約18%が話す言語で、大部のズールー語などに近いと言われる)を駆使して、国家公安局の片棒を担いだ、物語の原作者・主人公の、南アフリカの刑務官である。

本作は、このジェイムズ・グレゴリーの視線のうちに捕捉されたネルソン・マンデラの、その際立って高い道徳的質の集合的価値を内包する人物像を特定的に切り取った映画であるということだ。

ともあれ、「善」と「善」の心理的化学反応を描く物語は、観る者の感情移入を受容する、あらん限りの要素を包含させていて、まさに「アパルトヘイト」という、この国のよく知られた現実が、冒頭の説明的キャプション(注1)によってあっさりと片付けられていることで分明である。

これは後述する。

物語に関わる人種差別政策については、その最低限の情報を、観る者が保持しているという前提において作られた物語の制約下で、どこまでも本作は、人間の「善」の可能性を信じる者たちの支持を受ける構造性を内包していると言っていい。

だからこそ、厭味なしに言えば、文部科学省選定の決定版という、映像作品としての一定の賞味期限を保証したのであろう。

 
 
(人生論的映画評論・続/マンデラの名もなき看守('07) ビレ・アウグスト <千切れかかっていた「善」が、確信犯の「善」のうちに収斂される物語>)より抜粋http://zilgz.blogspot.jp/2012/07/07.html