ファーゴ('96) コーエン兄弟 <確信的日常性によって相対化された者たちの、その大いなる愚かしさ>

 稿の最後に、これまで言及した者たちの自我の崩れ方のさまとは、全く没交渉な人物のことを書いていく。

 本作の主人公であるマージである。

 彼女は小さな町の警察署長にして、心優しき画家である男の妻である。そしてこの妻は、あと二ヶ月足らずで出産を予定する妊婦である。この妊婦は未だ出産休暇を取らず、警察の職務に追われる日々を送っていた。
そんな中で発生した連続殺人事件の捜査を担当し、陣頭指揮に当って、その身重な体を揺さぶるように動き回る。果たして、そんなことが可能か否かというリアリティの問題はこの際棚上げにして、観る者は彼女の八面六臂(はちめんろっぴ)の活躍を見守ることになる。

 確かに彼女は有能だった。それは、「女にしては」という含みのある制約を無視して、特段に優れた捜査能力を発揮して見せたのである。

 ところが、映像で映し出される彼女の描写の全ては、決して、事件と直接絡む出来事ばかりではなかった。とりわけ、「マイク・ヤナギダ」に関するエピソードは、事件と脈絡する伏線にもなっていなかった。単に事件を知った旧友が、彼女との再会を懐かしがって見せただけのエピソード。なぜ、作り手はこのような描写に、全篇僅か90分の映像の一部を割こうとしたのか。

 ストーリーの記述の際にも言及したが、作り手はこのような描写をふんだんに見せていくことで、「サスペンス映画」の約束事を破壊する実験をしたのであろうか。それも充分に考えられるが、私はそれ以上に、彼女の枝葉末節のエピソードを多く盛り込むことによって、作り手は、絶対的安定感を手に入れた日常性の、その心地良き小宇宙を描き出したかったからであると考えている。

 そこで紹介される、夫との微笑ましい共食風景や他愛のない会話の中にこそ、彼女の幸福なる日常性の世界の中枢があった。

 それは、彼女の拠って立つ自我の絶対的安定の基盤だったのだ。

 彼女は夫の売れない絵を賞賛し、常に夫の創作意欲を削ることがない心遣いを見せていた。家庭では事件のことは話さず、夫の大きな胸に、その身を柔和に預ける甘えを表現して止まないのだ。夫もまた、妻の緊急の出勤の際には卵料理を作って、何とか栄養を補給させようとする。そしてその妻は、食欲がなくても夫の料理を満足げに食べて、常に夫への感謝の念を忘れないのである。

 夫婦はまもなく産まれる子供のために、幸せな家庭の受け皿を築く努力をしているようにも見えるが、しかし彼らの振舞いは極めてナチュラルであり、どこまでも素朴である。相互に不必要な気配りをしているように見えないところにこそ、この夫婦の絶対的強みがあるのだ。二人は心底幸福感を実感していて、そこに過剰なる尖りは全く見られないのである。

 この二人についての日常描写は、事件を発動し、そこに翻弄される愚かなる者たちの非日常的風景と殆ど対極の関係を表現するものになっている。そこにこそ、作り手のメッセージが仮託されていると解釈するのが自然なのである。事件に翻弄される者たちの愚かさ、醜さ、滑稽さは、まさに確信的に、その身を日常性に委ねる穏やかなりし夫婦の存在性によって相対化され、その非日常的風景の崩れのさまを、より醜悪なる形で炙り出されてしまうのだ。

 マージは警察署長であり、事件の中心的捜査官だが、彼女の勤務の内実は非日常的な醜悪さに触れることはあっても、彼女自身は特段の自己犠牲的使命感によって、且つ、そこに侵入するに足る相当の覚悟をも随伴させつつ、その非日常の刺々しさの中に踏み込んでいるようには見えないのだ。

 彼女はあくまでも、マイペースに淡々と職務をこなし、時には悪阻の症状を見せて、職務を中断することさえある。事件に対する彼女の入り方は、殆ど、彼女の日常性と地続きなのである。彼女の職務もまた、彼女の普通の日常のそれと変わらないのだ。彼女がその身重の体を移動させながら、連続殺人事件という非日常の世界に踏み込んでも、その世界が放つ危険で醜悪且つ、刺々しい臭気を嗅いでも、彼女は全くそれに振られる素振りは見せないのである。

 彼女にとって、自らの日常的職務の範疇にある事件への捜査とどれほど絡んでも、彼女が夫と共に求めるようにして作り上げた、その心地良き日常性が崩されることがないのだ。だから彼女は、出産という非日常の時間と柔和に繋がっている、その固有な日常性を目立って身体化させても、本来の安定した意識の不動性を、そこに堂々と映し出して見せたのである。

 映像は恐らく、その辺りについて淡々とした思いを寄せている。しかしその思いは、確信的日常性を構築した者だけが理解し得るラインなのである。これは、「確信的日常性によって相対化された愚かしさ」を描いた秀作であったと言えるのだ。

 安定した日常性を確保した者(警察官)が、その勤務の日常性に自らを委ねるとき、その勤務が開いた非日常の現実(連続殺人事件)に入り込んでも、その者が確保する日常性との連続性が断たれていて、そこに安定した日常性を確保した者の真の強さが検証されたのである。
 
 本作に於けるマージについての描写は、ダブルベッドでの夫との添い寝に始まって、そしてそのベッドの上で、夫との柔和な会話によって閉じていく。この描写の円環的な文脈こそが、本作の生命線であったと言えるのだ。

 あと二ヶ月もすれば、新しい生命が誕生するかも知れない至福の境地を、夫婦は愉悦している。この話は夫婦愛の極点を示す描写でもあった。そして、妻の継続的に安定した精神的サポートがあればこそ、夫の絵が3セント切手に採用されるという細(ささ)やかな成功に繋がったと読み取れなくもない。そのエピソードの中に、慎ましやかなものに対する作り手の思いが仮託されていると見るのは、蓋(けだ)し自然であると思われる。

 言わずもがなのことだが、マージとノームの関係だけが、本作で紹介された四組の典型的な関係の中で、唯一、柔和で破綻のない平和な秩序を現出していたのである。(因みに、他の三組とは、ジェリーとジーンの夫婦、ジェリーと義父ウェイド、そしてカールとゲアの犯罪コンビの関係である)

 最後に本作は、「変な顔」の男という記号でしか語られなかった小男が、その人格性を削られたまま、多少湿気のある日常性(娼婦遊び)と、乾燥した非日常性(事件の連鎖)を往還させながらも、その脆弱な自我をより劣化させる方向に崩していった様態を対極に置くことで、映像の基本ラインの構造を映し出しているとも把握できる。

 結局この話は、それぞれの拠って立つ、自我の基盤の硬軟度や豊凶度のさまというものが、それぞれの自我が関与する状況下で、いかに自らを有利、不利なものに分けていくかということを人間学的に考察した一篇であったと、私が勝手に把握した次第である。

 「・・・何のために?僅かなお金のため?人生は、もっと価値があるのよ。そう思わない?バカなことを。こんないい日なのに・・・理解できないわ」
 
 このマージの言葉の重量感は、当然の如く、捕縛されているゲアには届かない。或いは、この映像を観る多くの者たちにも届かなかったのかも知れない。

 それもまた、良しとしよう。映像から何を汲み取り、何を捨てていくのもまた、観る者の自在なスタンスや思い入れの度合いに因っているからである。


(人生論的映画評論/ファーゴ('96) コーエン兄弟 <確信的日常性によって相対化された者たちの、その大いなる愚かしさ>」)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2008/11/96.html