松井秀喜は国民栄誉賞を授与するに最も相応しい男である

イメージ 11  「人間性の素晴らしさ」、「野球界でもう一度頑張れよ」という表現の曖昧さ

 


NHK・2013年5月7日(火)放送の「クローズアップ現代」を観て、些か当惑した。

 
松井秀喜とともに闘った“同級生”たち」

これが、その日の「クローズアップ現代」のテーマ。

その概要は、以下の通り。

電撃的な引退会見後、度重なる怪我と闘いながら、最後まで諦めずに努力し続けた、松井秀喜の野球人生をニュースで聞き知った人々、とりわけ、「就職氷河期世代」=「松井世代」と呼ばれる人々が、彼の生き方に共感し、勇気づけられたというメールが、ネットを通して氾濫しているというもの。

「自分は、松井ほど人生を懸命に闘っただろうか」

そういうメッセージが、ネット上に溢れたのである。
 
ネットに親しんでいる「松井世代」が、そのネットを経由して流されてくる、数多の「松井情報」を入手していなかったということに、正直驚かされるが、それは如何に、「松井情報」が表層的なものであったかを物語っているとも言える。

「茨の道を往く男」と、私が勝手にネーミングした松井秀喜の「苦闘の野球人生」を辿りながら、「松井世代」が生きた時代を読み解くというテーマの切り口は、とてもよく理解できる。

私が些か当惑したというのは、この放送が、その2日前に、異例とも言える、東京ドームでの「長嶋・松井国民栄誉賞」の表彰式を受けてのものだったからである。

この放送で繰り返されたのは、松井秀喜(私は、敢えて「氏」という呼称は使用しない)の「ひたむきな努力家」、「周囲に貢献する姿」、「命がけの人生」といった、松井秀喜のトレードマークのような「人間性の素晴らしさ」に大きな影響を受けた人たちが語る、人生の再構築へのポジティブなエピソードのオンパレード。

無論、異論はない。
 
しかし、松井秀喜と深い親交を持ち、彼の人柄を高く評価する伊集院静がゲストだから、どうしても、「モデスティ」という言葉に象徴される、松井秀喜の「美徳」が語られることになる。

いつもながら違和感を覚えるのだ。

決して聖人君子であり得ない、松井秀喜の「人間性の素晴らしさ」を、特段に「価値ある何か」と決めつける物言いに違和感を覚えるのである。

「ホームランを打っても、ガッツポーズをしない。 それは投手も一生懸命投げて、たまたま甘い球が来たから自分が捉えたと、それに対する敬意ですね」

伊集院静の言葉である。

これが、当然過ぎる松井秀喜のプレー精神を、取り立てて大袈裟に言うほどの「美徳」なのか。

しかし同時に、そのプレー精神は、相手投手を刺激することで次の打席を不利な状況にさせたくないという、松井秀喜のリアリズムのメンタリティと共存していることをも知らねばならないだろう。
 
何より彼は、ゲーム半ばでの活躍を自賛し、それをパフォーマンスする類の「体育会系原理主義者」ではないのだ。

勝つまでは喜べない。

だから、不必要に相手を刺激しない。

「間」と「間」の、ほんの少しの空気の変化で動く、典型的なスポーツである野球は、何が起こるか分らないというリアリズムのメンタリティこそ、松井秀喜の野球観の基幹ラインに内包されている。

勝負は下駄を履くまで分らないのだ。

野球の怖さを知っている、この「全身プロフェッショナル」の信念が、松井秀喜の野球観を貫徹している。

喜びのレベルが違うと言ったら、大袈裟か。

一切は、「チームが勝つこと」に収斂される文脈なのである。

それだけのことだ。
 
ところが困ったことに、野球に全く精通していないと思われる国谷裕子キャスターは、この番組の中で、繰り返し、「ガッツポーズをしない松井の人間性」をアナウンスする。

ガッツポーズをしない野球の選手など掃いて捨てるほどいるのに、このキャスターと伊集院静は、執拗に、この種のエピソードをアナウンスしてくるから、正直うんざり気分だった。

要するに、「ガッツポーズをしない松井の人間性」という象徴的なプレー精神の中に、松井秀喜の「人間性の素晴らしさ」を証明しようとするのである。

そして、この番組を観る多くの視聴者は、松井秀喜の「人間性の素晴らしさ」こそが、国民栄誉賞の授与するに値する人物であるという印象誘導の危うさのうちに、「松井秀喜観」が結ばれていくだろう。

それが、私には看過し難かったのである。

―― 番組から離れてみよう。

松井秀喜への国民栄誉賞の授与は、「野球界への恩返し」という「将来性」への期待を込めたもの。
 
WBCの監督であった山本浩二が、国民栄誉賞の授与の「祝典」の放送中に、そのような物言いをしたことを耳にして、驚くというより、憤怒に近い感情を覚えた。
 
「長嶋さんはやっと来たかという感じで、我々からすると、いつもらわれてもおかしくない方。松井君は恐縮していたけれど、『野球界でもう一度頑張れよ』というエールを送るような賞だったんじゃないかなと思っている」

 これは、1987年に国民栄誉賞受賞している衣笠祥雄の言葉。

 このコメントに対して、取り立てて、大袈裟に反応するに及ばないという印象を受けるが、「野球界でもう一度頑張れよ」という表現は、「将来における、球界へのお返し」と同義であるだけに、これもまた、私には看過し難かった。
 
この表現からは、松井秀喜国民栄誉賞の対象になることの否定的文脈が容易に読み取れる。

 即ち、現在の松井秀喜には、国民栄誉賞の授与が相応しくないと言っているのだ。

大体、「将来における、球界へのお返し」のために、国民栄誉賞が授与されるのだとすれば、「ライジングスター」=「将来性のある人物」なら、誰でも国民栄誉賞の対象になる可能性を有することになる。

過去の功績ではなく、将来の職業や生き方まで予約させる国民栄誉賞とは、一体何なのか。

そんなバカバカしいことがあっていいのか。

思うに、松井秀喜の「人間性の素晴らしさ」や、「野球界でもう一度頑張れよ」という表現には、その曖昧さの度合いの高さによって、国民栄誉賞の目的の曖昧さを露呈させる以外の何ものでもないのだ。
 
長嶋茂雄終身名誉監督との「師弟愛」の抱き合わせによって、松井秀喜が、こんな曖昧な根拠で、国民栄誉賞を授与したとすれば、長嶋茂雄終身名誉監督ばかりか、それ以上に、松井秀喜に対してあまりに非礼ではないのか。

いつも肝心なところで、基準を曖昧にしてしまうのだ。

この辺りが、この国が最もダメなところである。

因みに、「国民栄誉賞表彰規程」(昭和52年8月30日 内閣総理大臣決定)では、以下のように定められている。

1 目的  この表彰は、広く国民に敬愛され、社会に明るい希望を与えることに顕著な業績があったものについて、その栄誉を讃えることを目的とする。

2 表彰者  内閣総理大臣

 この「国民栄誉賞表彰規程」の目的が曖昧なのは仕方ないとしても、国民栄誉賞を授与する際には、明瞭に根拠を説明せねばならない。

後述するが、国民栄誉賞の人選が恣意的で、政治利用のショーである事実を認知し得てもなお、受賞者の受賞根拠を明瞭にすべきである。

その説明が曖昧なので、私自身の所見を述べていきたい。

それが、本稿の目的であるからだ。
 
 
 
(得意淡然、失意泰然 ―― 松井秀喜の世界/松井秀喜国民栄誉賞を授与するに最も相応しい男である)より抜粋http://zilgk.blogspot.jp/2013/06/blog-post.html