舟を編む(‘13) 石井裕也 <辞書という名の「大海に浮かぶ一艘の舟」を丁寧に編む男の物語>

イメージ 11  主題と構成が見事に融合し、均衡感を堅持した、邦画界での名画の誕生を告げる秀逸な一篇



特段にドラマチックな展開もない地味な物語の中で、歯の浮くような感傷譚を挿入することなくして、これだけの構築力の高い映画を作った石井裕也監督に最大級の賛辞を贈りたい。

主題と構成が見事に融合し、均衡感を堅持したことで、物語が自壊することがなかった。

これが最も良い。

無駄が描写がないからテンポが良く、中途で息切れせず、最後まで破綻することがなかった。

キャラクター造形にも成就している。
 
主人公・馬締光也(まじめみつや)を演じた、松田龍平の圧巻の表現力は言わずもがな、この映画に安定感を作り出す決定的な役割を演じたのは、加藤剛扮する、老練だが、洗練された教養を有する国語学者・松本の安定した存在感であると言っていい。

「ダサイ」、「キモイ」、「ヤバイ」、「マジ」、「ウザイ」、「チョベリバ」等々、若者用語を排除することなく、それを吸収する包活力を示し、大辞典の編纂のコアとなる役柄を、ここまで演じ切れるのは、私には加藤剛以外の俳優の名前が浮かばない。

この国語学者の存在が、主人公の内面の変化に大きな影響を及ぼす一連のエピソードの中に、年齢差を越えて、見えにくくも、志を同じにする者同士の「静かなる情熱」(石井裕也監督の言葉)の紐帯を、的確な構図のうちに提示した映像には、地味な物語を支える内的秩序があった。

そして、主人公の妻になる香具矢(かぐや)を演じた、宮﨑あおいの抑えた演技に加えて、オダギリジョー扮する、西岡との対比効果によって際立つ、主人公の内面的変容のプロセスを丁寧に拾い上げていたことも、この映画をヒューマンドラマの秀作に昇華させた一因でもあるだろう。
 
邦画界での名画の誕生を新たに告げる、蓋(けだ)し、秀逸な一篇だった。



2  「職業的負荷意識」と乖離する、対人的コミュニケーションという厄介な障壁



会社組織への適応を著しく顕在化させている男がいる。

そのため、会社内部では、「全身変人」扱いされている。

その遠因が、コミュニケーション能力の目立った苦手意識にあることを、男も認知している。

「人の気持ちが分らない」

下宿先の「早雲荘」の大家である、タケおばあさんに語った男の言葉である

そんな男が、玄武書房という、大出版社の営業部に配属されている現実自体が充分にミスマッチなのだが、男には転職の意思などないようだった。

と言うより、転職の意思を言語化する行為に振れないほど、男にはコミュニケーション能力の瑕疵が目立つのだ。

それよりも、社食で、好きな本を読んでいるだけで満足するのだろう。

そんな男に、思いも寄らない転機がやって来た。

玄武書房辞書編集部が総力を挙げている「大渡海」の編纂に当たって、貴重な戦力であるベテラン編集者・荒木が妻の具合が悪くて、定年を機に辞めるので、社内から後任の者を探す必要があり、その中で選ばれたのが、この男、即ち、営業部のお荷物的存在だった馬締光也だった。

「右という言葉を説明できるかい?」

大学院で言語学を専攻した履歴を有する、馬締に対する荒木の面接が、この発問の答えを求めるテストであったという導入は、未だコメディーの筆致であり、掴みとしてオーソドックスでありながら、馬締のキャラを端的に捉えていて悪くない。

その馬締は、唐突の発問に戸惑いながらも、手振りを不器用に交えつつ、考え抜いた末に、弱々しく、拙い言葉で答えていく。
 
「西・・・を向いたときに、北・・・に当たる方が右」

 それだけ言って、挨拶もなしに、その場を離れていく馬締。

辞書編纂のプロ・荒木が、この馬締の反応に辞書作りの才能を見抜き、馬締が辞書編集部に転属するという顛末であるが、荒木の納得尽くの表情のみで、次のカットが馬締の転属のシーンにシフトする。

これはいい。

無駄な描写を省き、映像のみで見せているからである。

「辞書作りは、まず、言葉集めから始める。この資料室には、先生と編集部で集めた100万以上の言葉が保管されている」
 
これは、転属早々の馬締を、辞書編集部の資料室を紹介し、荒木が説明するシーンである。

辞書作りの基本が言葉集めにあるという語りだが、対象となる言葉と使用例を、カードに記入していく作業を「用例採集」と言う。

このように、専門的な用語を、観る者に分りやすく映像提示するのは、所謂、「説明描写」と異なるので、以下の、辞書編集部の中心人物である国語学者・松本の辞書観もまた、同じコンテキストで受容できるだろう。

「言葉は生まれ、中には死んでいくものもある。そして、生きている間に変わっていくものもあるのです。言葉の意味を知りたいとは、誰かの考えや気持ちを、正確に知りたいということです。それは、人と繋がりたいという願望ではないでしょうか。だから私たちは、今を生きている人たちに向けて、辞書を作らなければならない。『大渡海』は、今を生きる辞書を目指すのです」

第1回辞書編集部会議での松本の言葉である。

真剣に耳を傾ける馬締。
 
日本語の乱れの象徴とされる「ら抜き言葉」(「られる」から「ら」を除く言葉)にも理解を示し、合コンにも行き、PHSが販売されたら逸早く買うなど、新しい世代の考えを積極的に摂取する松本の辞書観は、この抱負に集約されると言っていい。

「言葉の海。それは果てしなく広い。辞書とは、その大海に浮かぶ一艘の舟。人は辞書という舟で海を渡り、自分の気持ちを的確に表す言葉を探します。それは、唯一の言葉を見つける奇跡。誰かと繋がりたくて、広大な海を渡ろうとする人たちに捧げる辞書、それが『大渡海』です」

この台詞は、飲み屋での松本の言葉だが、些かくどい印象を拭えないが、誰かによって語られねばならない、このメッセージなしに成立しない映画なので、ここは文学に譲歩するしかないのだろう。

「玄武国語辞典に載っている言葉には◎、これは、約6万語。全て『大渡海』に載せる。しかし、問題はそれ以外の言葉だ。大辞林広辞苑の両方に載っている言葉には○をつけ、片方にしか載っていいない言葉にはをつける。○は『大渡海』に載る可能性は高く、△はそれより低い。しかし、最も重要なのは『無印』の言葉だ。他の辞書には載っていないどんな言葉を選ぶかで、『大渡海』の個性は決まる」
 
口で言うのは簡単だが、ここで語られたものを遂行していく仕事の凄みを、ワンシーンのみで見せる映像の提示によって、観る者も納得せざるを得ないに違いない。

「用例採集」という仕事を地道に遂行するという、かくまでに労苦に満ちた仕事を担う者たちは、言葉に拘り、正真正銘のプロフェッショナルな集団以外の何者でもないだろう。

因みに、プロフェッショナルとは、「プロ意識」を持つ者のこと。

私のシンプルな定義である。

更に言えば、その「プロ意識」とは、専門的知識と技術を有し、それだけは誰にも譲れないという自負のもとに、約束した結果を果たすために、それを中途で放棄する行為に振れることのない「職業的負荷意識」である。

ところで、本作の中で、この「職業的負荷意識」に欠けていたのは、辞書編集の仕事にマッチングしたかのような馬締その人だった。

馬締は、単に趣味で本を読み、無数の言葉を収集する、超一流のアマチュアの凄みを人格内化し得ても、それは「職業的負荷意識」と乖離する何かだった

この「職業的負荷意識」を内化するには、「チーム」として一丸となった、その道のプロたちが、対人的コミュニケーションを唯一の手段として相互に協力し合いながら、眼の前の小さな課題を一つ一つ処理し、「万人不動・終生不変」と言われる、個人の指紋が消えるほどの仕事をクリアしていくことによってしか術がないのである。

だから、この職場でも、馬締のハードルの高さは変わらないのだ。

この難儀なハードルを越えていくこと。

これが、彼の喫緊のテーマになったのは必至だったのである。

「人の気持ちが分らない」
 
国語学者・松本の言葉に真剣な眼差しを向けながらも、馬締の内部では、依然として、この自己像が障壁になっているのだ。
 
 
 
(人生論的映画評論・続/舟を編む(‘13) 石井裕也   <辞書という名の「大海に浮かぶ一艘の舟」を丁寧に編む男の物語>)より抜粋http://zilgz.blogspot.jp/2014/02/13.html