横道世之介(‘12)  沖田修一 <「約束された癒しの快感」に張り付く、「普通に善き人」・世之介の人格像の押し売りの薄気味悪さ>

イメージ 11  偏見の濃度の薄さ ―― 世之介の人格像の芯にある価値ある何か
 
 
 
 
「普通に善き人」・世之介の柔和なイメージ全開の青春譚・純愛譚の中で、その世之介の人格像を端的に表現している印象的なシーンを起こしてみる。
 
まず、私にとって最も印象深いのは、単に人間違いで知り合っただけの、未だ「普通の友達」以下の関係でしかない加藤とのエピソードを再現してみる。
 
散歩に行くと言って、アパートの部屋を出た加藤を、イカを食べながら随行する世之介。
 
「なあ、どこ行くんだよ!蚊がいるよ、帰ろうよ」
「ああ、もうお前、帰っていいよ!」
 
自分で一緒に行くと言いながら、夜の散歩に随行する世之介の言葉を遮った。
 
「だって、もう公園しかねえよ。夜の公園って、すげえヤンキーとかいて、すげえ怖いって聞いたよ」
 
そう言いながらも、相変わらず、スイカを食べている。
 
公園に着いた加藤が、世之介に向かって、思いがけないことを告白したのは、このときだった。
 
「なあ、俺さ、前に女の子に興味ないって言ったよな」
「ん?そんなこと言ったっけ?」
 
まだ、スイカを食べている。
 
「俺さ・・・男の方がいいんだよ」
「え?」
「分るか?」
 
一瞬、気まずい「間」が生れるが、この「間」の正体がすぐに判然とする。
 
「それって、俺に告白してる・・・」
 
世之介は、そう言ったのだ。
 
爆笑もののカットだった。
 
そのあとの加藤のツッコミも決まってい
 
「してねぇよ!お前、タイプじゃないし・・・まあ、そういうことだから、今後、俺と付き合いづらいようだったら、もう家、来なくていいし」
「はあ?行っちゃまずいの?」
 
本篇で最も面白く、笑いのツボに嵌った掛け合いコントのようだった。
 
物理的に迫って来る世之介との、加藤の絡みも決まっている。
 
「まずくないけど・・・」
「え、うん?」
「何、お前、動揺とかしてないの?」
 
加藤の方が驚いているのだ。
 
「え、何で?」と世之介。
「何でって何だよ。だから、この公園はそういう場所で、俺はその・・・そういう刺激を求めて、ここに来ているわけで」
 
単刀直入に言えない加藤の表現力は出色である。
 
「じゃあ、俺、いちゃまずいじゃん」
「そうだよ、まずいんだよ、だから」
「じゃあ、俺、ここで待ってるわ」
「だから、それ変だろって」
「いいよ、邪魔しないから。ほら、いっといで」
 
イカを食べながら、花壇の石に座って、平然と待とうとしている世之介の態度に、すっかり興醒めした加藤は、最後まで、自分のペースを崩さない相棒が放つ柔和な空気感に溶融し、この日の目的を断念するが、ここで交わされた二人の会話の可笑しさは逸品だった。
 
ここで、一転して、加藤の現代のパートのシーンが挿入された。
 
この公園でのエピソードが、加藤の記憶を喚起させたのである。
 
「まあ、大したことじゃないんだけどさ。今日、通りすがりの人が、すんごい汗だくでさ、何か、誰かに似ていると思って、ずっと思い出せなくて、それを今、想い出したっていう・・・」
 
言わずもがな、現在の同性愛のパートナーに語った言葉から分明な事実は、加藤にとって、世之介がパートナーの価値として相応しくなかったということだ。
 
それでも、加藤は回顧する。
 
「あ、何か得した気分。いや、今、思うと、あいつに会ったというだけで、俺はお前よりだいぶ、得した気がするよ」
 
ビートルズを真似したつもりなのか、天然のかかったマッシュルームカットからして、存分にダサイ。
 
その体臭が放つ暑苦しさを、常に払う態度を加藤が取っても、気にしない男。
 
しかし、好感を持てる男である。
 
だから憎めないのだ。
 
では、全く空気の読めない鈍感な男なのか。
 
「傷ついてもすぐに立ち直れるし、いろいろなことを言われてもすぐに忘れられる。どんな時もくよくよしないで、へこたれずに、物事を前向きに捉えていく力のこと」(「鈍感力」渡辺淳一著、集英社
 
これは、渡辺淳一が定義する「鈍感力」。
 
確かに、世之介には、このような側面が垣間見られたが、しかし決して、彼は全く空気の読めない男ではない。
 
一言でいうと、この男の価値観の尺度には目立ったバイアスがなく、相当程度において、偏見が希釈されているのだ。
 
偏見とは、特定の事象に対する過剰な価値観が氾濫し、そこに情感投入しやすい観念・行動傾向である。
 
世之介には、これがない。
 
だから当然、さして根拠がない事象に対して、過剰に主観的で、恣意的な判断基準に振れていかないのである。
 
頭脳明晰とは言えないが、相対化し得る能力を劣化させる脆弱性によって、バイアスの濃度を高める事態に流されていく危うさからも解放されているのだ。
 
この偏見の濃度の薄さこそ、世之介の人格像の芯にある、かけがえのない価値ある何かであると言っていい。
 
 
 
 
2  「普通に善き人」というあまりに分りやすく、特化されたイメージに収斂されてしまう危うさ
 
 
 
世之介の偏見の濃度の薄さが、全く育ちの異なる祥子に対する態度のうちにも表れていた。
 
「お嬢様」育ちの祥子を、特段に色眼鏡で見ることがなく、異性感情なしでも、世之介に惚れる祥子を自然に受容し、会話を繋いでいく。
 
会話を繋いでいくうちに、いつの間にか育んでいた異性感情が、身体表現されるに至る。
 
しかし、未知のゾーンに絡まれて、世之介は不器用な反応しかできない。
 
多くの青春がそうであるように、彼は経験の累加の行程で成長していく典型的若者なのだ。
 
偏見の濃度の薄さが彼の成長を約束させ、確実に内化させていく心的行程を律動的に開いていく。
 
「お嬢様」育ちの祥子との、一連のエピソードの第一弾は、長崎に帰郷した折の、浜辺でのデートのエピソード。
 
夜の浜辺で、肩を組む世之介と祥子。
 
「あの祥子ちゃん・・・」
「はい」
「これは・・・口に出すべきことか分らないんだけど」
「はい」
「キスしていい?」
 
当然、祥子は受け入れる。
 
「じゃ、その・・・失礼して、あの何と言うか・・・顔の角度を、もうちょっと少し・・・」
 
笑いのネタにしたつもりだろうが、あまり笑えない。
 
設定が稚拙過ぎるからだ。
 
ともあれ、この絶好のチャンスは、ベトナム難民騒動に巻き込まれて、頓挫する。
 
今度は、スキーに行って、怪我して入院している祥子を、世之介が駆け付けて来たエピソード。
 
「何で、すぐ知らせてくれないの?」
「ごめんなさい。言ったら、心配なさるかなと思って」
「心配するよ。心配するのが仕事っていうか、心配させてよ。もし、俺が怪我とかしたら、真っ先に祥子ちゃんに知らせるからね」
 
この世之介の優しさに感動する祥子は、言葉を失っている。
 
その情感が言語に結ばれたとき、祥子は、二人の心理的関係の距離を縮める思いを込めていた。
 
「私、これから世之介さんのことを呼び捨てにします。いいですか?」
「うん・・・いいけど」
「はい。・・・あのう、世之介」
「じゃ、し、しょうこ・・・」
「はい。世之介」
「祥子」
 
頷きながら、世之介は明瞭に言い切った。
 
二人で、笑い合いながら、いつまでも、交換不能な裸形の「固有名詞」をキャッチボールしている。
 
 
 
(人生論的映画評論・続/(人生論的映画評論・続/横道世之介(‘12)  沖田修一  <「約束された癒しの快感」に張り付く、「普通に善き人」・世之介の人格像の押し売りの薄気味悪さ>)より抜粋http://zilgz.blogspot.jp/2014/03/12_26.html