第七の封印(‘56) イングマール・ベルイマン <虚無の地獄に喰い尽くされた者たちの、その終息点の風景の痛ましさ>

イメージ 11  「ヨハネの黙示録」 ―― その冥闇の世界が開かれていく
 
 
 
ベルイマン監督の映画は、いつ観ても素晴らしい。
 
経年劣化しないのだ。
 
常に、人間の普遍的テーマを問題意識のコアに据えて、それを的確に表現するアーティストとしての力量が、一頭地を抜いているからである。
 
不良少女モニカ」(1953年製作)から、最高到達点とも思える「秋のソナタ」(1978年製作)を経て、「ファニーとアレクサンデル」(1982年製作)、「サラバンド」(2003年製作)に至るベルイマン映像は、世界映画史上の宝である。
 
無論、オリジナリティ豊かな「第七の封印」も、その例外ではなかった。
 
―― 以下、梗概と批評。
 
「小羊が第七の封印を解いた時、天は静寂に包まれた。それは半時間ほど続いた。そして、ラッパを持った七人の天使がラッパを吹く準備をした」
 
ヨハネの黙示録第8章」から開かれる冒頭のナレーションである。
 
従者・ヨンスを随行する騎士のアントニウスが、自らを「死」と呼ぶ死神に出会ったのは、全ては神の名のもとに、「蛇に咬まれ、虫に刺され、獣に襲われ、異教徒に切られ、酒に毒され、病気をうつされ、熱に浮かされてきた」(ヨンスの言葉)、10年間にもわたる十字軍の虚しい遠征から疲弊し切って、帰国の途に就いているときだった。
 
「ずっと傍らにいた」と言う死神が、「用意はできているか?」とアントニウスに問う。
 
「体はいいが、心はまだだ。少し時間をくれ」と答えたアントニウスが、死神にチェスを挑んだのは、自らの死に対する猶予期間を持ちたいからだった。
 
「勝負がつくまで私を生かし、負けたら解放しろ」
 
かくて開かれたチェスのゲームを中断し、アントニウスとヨンスの帰国の旅は継続されるに至る。
 
そんな中で、道の傍らに馬車を止め、骨休めしている陽気な旅芸人一家(夫のヨフ、妻のミア、幼児ミカエル)がいる。
 
夫のヨフが、幼いイエスを連れた聖母マリアを見たことをミアに話しても、「想像力が豊かね」と言って全く取り合ってくれないが、夫婦愛に満ちた二人の会話には、アントニウスの煩悶と無縁な光景だった。
 
一方、ペストが蔓延し、一切を神の罰であると考える民衆の悲惨な光景を見て、教会に入り、懺悔室で神父に告白するアントニウス
 
「鏡を覗き込めば、映るのは、その虚無感です。見るだけで胸が悪くなり、恐ろしくなります。人と交わらず、社会の外に身を置きました。今や、己の幻想の中に生きる囚われ人です。死にたいです」
「なぜ、引き伸ばす?」
「体験したい」
「確証を得たいのか?
「そうとも言えます。神の存在を感じることは不可能ですか?我々が信じるのは、空約束と真偽の分らぬ奇跡。不信心者はどうなるのです?我々は、神を信じられなくなった。なぜ、神を消せない。いくら心から追い出そうとしても、あざ笑うかのように居座っている。幻想に過ぎない存在を、なぜ消し去れないのです?」
「主は沈黙される」
「呼びかけても暗闇の中には、誰もいない気がします」
「それが事実なら?」
「人生は空しいものに。そうと承知で死と向き合い、生きてはいけない」
「皆、死も空しさも考えない」
「でも、いつかは死の淵に立つ。我々は恐怖を偶像化し、それを神と呼ぶのです」
「何を怖れている?」
「今朝、死が訪れたのでチェスを挑み、目的を果たす猶予を得ました」
「目的とは?」
「生涯、私は神の姿を求め、神に問いかけてきました。実りのない行為でしたが、己を恥じていません。誰の人生も、そんなものだ。ですが、私は最後に一つ、意義ある行いをしたい」
「そのために死に挑んだ?」
「奴は戦略家です。ですが、私も負けてはいない」
 
途中、背後からの死神の問いに騙され、チェスの作戦を教えてしまうアントニウス
 
アントニウスが死神を認知しても、後の祭りだった。
 
アントニウスがヨンスを連れ、教会の外に出るや、そこには、明日、その悪行によってペストがもたらされたと断定され、火焙りの刑に処される「魔女」が縛られていた。
 
その魔女に「悪魔を見たか?」と聞くアントニウス
 
苦悶の叫びしか拾えなかった。
 
水を汲みに来たヨンスが小屋の中で見たのは、死者から腕輪を盗む男の忌まわしき光景だた。
 
この男こそ、アントニウスらを十字軍に参加させた、神学者・ラヴァルであった。
 
その成れの果ての姿を視認し、ラヴァルに恫喝された一人の娘を救い出すヨンス。
 
そして、「死の舞踏」をイメージさせる民衆が、ラインを成して進む姿を視界に収めるアントニウスとヨンスたち。
 
「終末がやって来たんだ」と怯(おび)える者もいる。
 
妻に逃げられた鍛冶屋は、必死に妻を探し回っている。
 
役者と駆け落ちした妻を、「殺してやる」と息巻くのだ。
 
一方、死神とチェスを継続しているアントニウス
 
そのアントニウスは、旅芸人一家の妻・ミアがミカエルをあやしている平和的な光景を見て、柔和な会話を繋ぐ。
 
「今日、舞台に立っていただろ?」
「ひどかった?」
「化粧をせず、今の姿の方がずっと綺麗だ」
「そうかしら。ヨナスが途中で消えたっきりで、困っちゃうわ」
 
ヨナスとは鍛冶屋の妻と駆け落ちした旅芸人の座長であるが、その事実を知らずに、元の軽業師に戻る不安を抱えるミア。
 
そのミアに「憂鬱な顔をしている」と言われ、「同伴者がいるから」と応えるアントニウス
 
リアリストのミアには、アントニウスが「同伴者」と呼ぶ死神の姿が見えないのである。
 
そこに、酒場に行って喧嘩に巻き込まれたヨフが戻って来て、相変わらず、円満な家族の風景が再現する。
 
旅芸人一家の安全を思い、共に森に逃げることを提案するアントニウス
 
既に、ヨフと見知りのヨンスもその輪に加わって、長閑(のどか)な時間を過ごすのだ。
 
「ここにいると、苦しい現実が嘘のように思える。この静寂と夕闇。ごちそうになった野いちごとミルク。夕日に映える君らの顔。この思い出を大事にしよう。ミルクが入った器をそっと運ぶように。きっと思い出すたびに、心が満たされるだろう」
 
映像の中で初めて見せるアントニウスの穏やかな表情は、彼にだけ見える死神の出現で、一転して暗欝な表情に戻されるのだ。
 
チェスを続ける二人。
 
チェスとは無縁なヨンスは、「俺は治りそうもない」と言う鍛冶屋の嘆きを受け止めていた。
 
「愛で死ぬバカはめったにいない。この不完全な世界で、愛ほど完全なものはない。その不完全さにおいてはな」
 
かくて、森の中を通って、城への旅を続けるアントニウスと旅芸人一家、そして鍛冶屋。
 
その森で、駆け落ちした鍛冶屋の妻とヨナスと出会い、鍛冶屋の妻は夫のもとに戻って来るが、死神を見たヨナスは、その場で命が絶えてしまうのだ。
 
そして、「魔女」の火焙りの刑に立ち会い、再び、アントニウスは彼女に、「悪魔と会ったのか?」と問いかけていく。
 
「私の目を見て。何が見える?悪魔がいるでしょ」
「見えるのは、君が抱く恐怖だけだ。あとは誰もいない」
「何もない?誰もいない?」
「ああ」
「では、お前の背後か?」
「いや。誰もいない」
「でも、悪魔は常にいる。今も一緒よ。私は火に包まれても平気。処刑人は怖くて私を触れない」
 
そう言った女は、まもなく処刑されるに至る。
 
その傍らに、死神がいたのは言うまでもない。
 
「あの娘は気づいたんだ。虚無しかないことに」
 
このヨンスの言葉が、女の心理を的確に表現していた。
 
 
 

人生論的映画評論・続
第七の封印(‘56) イングマール・ベルイマン
<虚無の地獄に喰い尽くされた者たちの、その終息点の風景の痛ましさ>)より抜粋http://zilgz.blogspot.jp/2016/02/56.html