達磨はなぜ東へ行ったのか('89) ペ・ヨンギュン  <勝ち過ぎた観念によって削られた映像構築力>

 一人の青年がいる。

 彼は自分の人生の方向が定まらず、懊悩していた。魂の自由への渇望もあった。

 彼の名はギボン。

 その魂の自由への飛翔を束縛すると感受させるのは、盲目の母と妹への扶養意識の精神的負担感だった。

 ギボンは間もなく、盲目の母と妹を、都市のスラムのような破屋(はおく)に残して出家した。

 「家族は私に背負わされた運命的な荷物でした。この宿命を断ち、我が道を行くのは、まさに不孝者の背徳行為です。しかし私は魂の自由に乾いていました。それにはまず、己を捨てなければ。両方を同時にはできませんでした。人生苦は積もり重なった狭い部屋を飛び出して、草原に立ちたかったのです。出家を心に決めたとき、人倫と家族への情は世欲と共に、一刀で断ち切るべき軛(くびき)でした。私は必ず真の悟りを開いて、大自由の道を手に入れて見せます」

 「大自由の道を手に入れて見せます」と語るギボンの思いを汲み取った山麓の僧侶は、彼に荒れ果てた山寺にいるヘゴク禅師を紹介した。

 「昼夜を問わぬ修行の最中、睡魔に勝つため、氷壁を背に坐禅を組んでおられて、脇腹の凍傷が崩れ、傷が化膿し、治療のため、やむを得ず下山された」

 これが、山麓の僧侶の話による、ヘゴク禅師の近況。

 そんな禅師の世話を焼く弟子として、僧侶は「真の悟り」を求めるギボンが相応しいと考えたのである。

 ヘゴク禅師が住む山寺は、天安山渓谷を登った辺りにある、まるで大自然の中枢に溶け込んだ辺境の地だった。

 「始めも終わりもない。生まれも死にもしないこの存在」

 その辺境の地で出会ったヘゴク禅師のもとで、「以心伝心」の教えを受ける青年僧が、大自然に抱かれて修行していく。

 「心の中の月を見つけ出し、四方を照らし出せば、その光は影のない光明となろう。それ一つ究めると、万法すべてに通じ、それ一つ打てば、福音遍く響き渡り、それさえ知れば、身分の上下もない昼夜が一つになった宇宙を得る。それはこの上もなく完全で、全てが可能である。また障害物が何もないのだから、永久に自由自在である」

 ヘゴク禅師が語る「永久に自由自在」の精神を得るために、ギボンは天安山渓谷の只中で修業を継続するが、その山寺には、禅師が町に出た際に、その養育を引き受けた一人の児童がいた。

 その児童の名は、捨て子のヘジン。

 映像は、このヘジンのエピソードを交えて、山寺の生活を追いかけていく。

 ヘジンはある日、番(つが)いの鳥の一羽に石を投げて殺してしまった。

 この一件以降、ヘジンは渓谷に来た沢山の悪童たちに虐められたり、崖から滑り落ちたりして、不運続きの日々の果てに、とうとう道に迷い、生命の危機に陥った。

 そんなヘジンを救ったのは、一頭の牛。

 その牛に導かれていくことで、ヘジンは無事、山寺に帰還することになったのである。

 後述するが、この牛は「悟り」の象徴としてイメージされた、禅宗の逸話の動物である。

 一方、ギボンは渓谷を後に、町に出て行った。

 托鉢した金で、禅師の傷を癒すための薬を買うためだ。

 薬を買ったギボンは廃屋と化したかのような実家に戻り、自分を特定できない母の顔を見て、大きく心が動揺した。

 このとき、母が毎日飲む薬の瓶を求めて弄(まさぐ)っているとき、ギボンはその薬を母の手の届くところに置き直したのである。

 後ろ髪引かれる思いで、家を出ようとしたその音で、母は娘であるギボンの妹の名を呼び続けた。

 この経験が、「大自由の道を手に入れて見せます」と言い放った青年の心を掻き乱し、山寺への帰郷の道は、贖罪に苛まれる魂の深い呻吟の時間に満たされてしまったのである。

 「汚れた俗世の埃と垢を落として、彼岸の完全さを渇望するあまり、山に籠りましたが、本当は生の汚濁、埃、芥、わけても生の苦しみを愛さずして為し得ぬと気づかれたのです。完全の方の万有は不可欠だからです。

 現実と運命への反抗は容易でも、それを愛するのは困難なことです。世の中を愛することができたら、それはどんなに美しいことか・・・世界は決して不完全なものではなく、我々の言語、思考、知識、意識が不完全なためとも思えます。『見性成仏』(注1)はただの夢かもしれません。成仏信仰のため、世を捨てられても、振り向けば、犠牲にした者全てが餓鬼の如く襲いかかり、罪悪感で奈落の底に落ちそうです。

 『済度衆生』(注2)とは何を言うのでしょう。成仏信仰一つに縋り、親、子供への責任を放り出し、一体何が言えましょう。誰が仏で、誰が仏でないのですか?仏と衆生の別は本来ないのです。生の渦巻く娑婆世界に私は帰ります」

 魂の深い呻吟の時間は、彼の自我を分裂させた分りにくい映像によって、暗鬱な画面の中に表現されていた。

 そこに、「娑婆世界に帰る」という感情に振れる思いと、「山寺での修行」を継続させる思いが分裂し、その分裂我を、映像は二人のギボンの深刻な対話の内に身体化したが、この構図の「芸術性」の自己顕示だけが際立ってしまって、観る者に混乱を与える効果しか残さなかったと思われる。


(注1)「けんしょうじょうぶつ」と読む。「見性」、即ち、「自己の本性」を見究めることによって悟りを得ることで、禅宗の概念。

(注2)「さいどしゅじょう」と読む。迷っている者を救うこと。


(人生論的映画評論/達磨はなぜ東へ行ったのか('89) ペ・ヨンギュン  <勝ち過ぎた観念によって削られた映像構築力> 」)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2009/12/89.html