ハワーズ・エンド('92) ジェームズ・アイヴォリー <「異文化間の葛藤・対立」の極点であると同時に、その調和の象徴としての「ハワーズ・エンド」>

 1  異なった文化を持つ者たちの階級社会の縛りの中で



 かつて高度経済成長下で、長屋住まいの我が家の父母が、何かのアンケート調査で、自分たちの生活レベルを「中の下」などと記したことでも分るように、当時、大半の日本人は自らの生活レベルを、「ミドルクラス」と答えていたのを想起するとき、本作で描かれた英国の階級社会の複雑な様態について到底理解すべくもないだろう。

 理解すべくもないその国の階級社会の縛りの中で、異なった文化を持つ者たちについて、情感豊かに綴った物語を簡単にフォローしていきたい。

 本作で複雑に絡み合った登場人物たちの関係構図を要約すると、以下のようになるだろう。

 この国の精神文化の土壌の中で、そこだけは厳然と仕切られていると信じる、「階級の壁」にガードされながらも、「自陣営」の愚か者の愚かな行為によって惹起された出来事で、拠って立つ自我の安寧の基盤を崩され、大いに嘆息し、そこで生まれた空洞感の中を浮遊する一人の中年男。

 その名は、ヘンリー・ウィルコックス。

 愚かな行為の主は、彼の長男のチャールズ。

 自分の財産の絶対的基盤を絶対的に確保しようと、一貫して振舞う男である。

 そしてその男によって、本来出会うべきはずのない若者が、行くべきでない場所に出向いて行った挙句、圧殺されるがの如く、絶命した一人の若者。

 その名は、レナード・バスト。

 「僕が彼女にしてあげることは、共に飢えることだ。金持ちならやり直せる。だが僕らは、一度職を失ったら、それまでです。食後の満足は金持ちにしかない」

 更に自分よりロウアーな、薄倖の女と反対を押し切って結婚生活を延長させながらも、事務員の職を失業し、今や「共に飢える」危機を常態化させている、「ワーキング・クラス」の階級に呼吸を繋ぐ若者だ。

 「アッパー・ミドル・クラス」と称される「上位中流階級」に位置する実業家のヘンリーと、普通ならクロスしようもない彼が出向いた場所こそ、彼らの階級の象徴である場所である「ハワーズ・エンド」。

 そこだけは堂々とした威厳を放つ、ロンドン郊外に屹立する古式床しき豪邸であった。



 2  「博愛主義の履き違え」、或いは、「大金を恵んでもらう貧しき者」という自己像を否定する矜持



 本作は、その若者と対極に位置する、ウィルコックス家との関係を結ぶに至る一家の物語を中心に進行してく。

 その一家とは、シュレーゲル家。

 ドイツ系の血を引く、「ロウアー・ミドル・クラス」と言われる比較的裕福な階級である。

 この階級は、余暇の中で多彩な議論を繰り広げる、教養豊かな知識人の宝庫とも言われるものだ。

 その家族を構成する、二人の姉妹と一人の弟。

 妹の名はヘレン。

 このヘレンが偶然、ベートーベンの講演に足を運ぶことで、一つの縁が作られた。

 ヘレンとの関係を介してレナード・バストもまた、「ワーキングクラス」の隅っこにあって、更に、思春期に両親を喪っていたジャッキーと結婚しながらも、夜の星座を見るために一晩中歩き続けたり、読書に耽ったり等々、アイデンティティの拠点を確保べく、彼なりの教養を見せる青年だった。

 直情系のヘレンは、そんな寡黙なレナードの困窮を援助するために、必要以上の同情心を寄せていく。

 「彼は良心の呵責など全く感じない男よ。頭も心も空っぽで」

 彼とはヘンリーのこと。

 レナードの妻のジャッキーを、若い時に弄(もてあそ)んで捨てたヘンリーに対して、ヘレンはレナードに毒づくのだ。

 ヘレンはまさに、貴族を憎悪したベートーベンの生き方をなぞっている。

 しかし、同情心の根柢には、相手を救済するという実感から得られる自己満足感が横臥(おうが)している。

 それはしばしば、同情される者の誇りを傷つける棘を隠し持っているから厄介なのだ。

 現に、彼は自ら彼女への援助を求めたことは一度もない。

 常に彼女の方が動いていくのだ。

 そこに異性愛の感情が絡んだとき、事態は収拾の余地のない困難な状況を露わにしていくだろう。

 ヘンリー・ウィルコックスの娘の結婚パーティで、レナード・バストとジャッキー夫妻が飢えているのを知って連れて来たことで、彼らが凌辱されたと逆恨みして、ヘレンは、姉のマーガレットの夫になるヘンリーへの憎悪が原因で、一切の理由を明かさない旅に出たのである。

 その際、彼女はレナードに対して、5000ポンドの大金を小切手で送る直接的援助という行為を平然と結ぶが、そのメンタリティを貫流するのは、「貧しき者を助ける」ことの実感から得られる自己満足感以外の何ものでもないだろう。

 先のパーティでは、「博愛主義の履き違えよ」と姉に批判され、小切手送金という直接的援助の行動の際には、「あまりに非現実的だと、身を滅ぼすよ」と弟に諭される始末だった。

 「当方には必要ないので、お返しします」

 これが、自分の家族には僅か10ポンドの援助を求めても、他人に依存しないレナードからの返事。

 当然である。

 「5000ポンドの大金を恵んでもらう貧しき者」という自己像を否定する矜持によって、レナードの自我が支えられているとも言えるのだ。

 そこに異性愛の感情が絡んだとしても、その自我の支えとは、ワーキングクラスの隅っこで、「食後の満足は金持ちにしかない」と吐露する如き身過ぎ世過ぎを継続させても自壊しないような、ギリギリの世界で呼吸を繋ぐ厳しさを、「5000ポンドの大金の恵み」を具現する同情視線のうちに吸収される事態を否定する矜持であるだろう。

 レナードとヘレンとの心理的距離は、決して最近接していた訳ではないのである。



 3  「異文化間の葛藤・対立」の極点であると同時に、その調和の象徴としての「ハワーズ・エンド



 一方、「神智学」を読むむマーガレットは、教養豊かで温和な性格の女性。

 シュレーゲル家の姉に当り、直接行動主義の妹のヘレンとは対極的な性格だ。

 そんなマーガレットに親近感を抱いたのは、ヘンリー夫人であるルース。

 階級意識を持たない二人の関係は、夫人の死の床で、「ハワーズ・エンド」をマーガレットに相続するという遺書を認(したた)めるほどだった。

 まもなく夫人が逝去し、その遺書が、計算高いウィルコックス家の家族会議の渦中で炎に燃やされるが、マーガレットにはまるで関知しない出来事。

 今度は、そんなマーガレットの率直さに惹かれたヘンリーが、彼女に結婚を申し込み、快諾されるのである。

 マーガレットの性格は、2つの「ミドル・クラス」の微妙な階級意識を超克する能力を示すものなのだろう。

 この婚約から、階級の離れた二つの家族の関係が生まれるが、妹のヘレンは納得できない。

 ヘンリーを嫌っているからだ。

 既にこの時点で、ヘレンはレナードへの援助を延長させていて、ヘンリーに再就職の依頼をしたものの、拒絶されていた経緯がある。

 「それも人生なんだ。貧乏人に同情するな」

 ヘンリーは、ヘレンにそう答えたのだ。

 これが、事業の才能があるが、教養に欠けるヘンリーの明け透けな階級観を反映する言葉だった。

 更に前述したように、ヘンリーの若き日の誤ちがパーティ会場で露呈され、その屈辱感による怒りから、マーガレットとの婚約解消という事態を出来した。

 他人の前では甲斐甲斐しく社交を繋ぐ誠実さを見せつつも、一人部屋に籠って咽び泣くマーガレット。

 まさに、「アッパー・ミドル・クラス」と「ロウアー・ミドル・クラス」との階級の落差が顕在化した事態だった。

 一方、ヘレンはレナードへ同情の延長上に、異性愛感情がリンクして結ばれる。

 ヘンリーの凌辱行為を許せないヘレンが家を出たのは、その直後である。

 数ヵ月後に戻って来たヘレンは、レナードの子を身籠っていて、「ハワーズ・エンド」に赴いた。

 そのようなヘレンの生き方を認めないヘンリーとその家族は、彼女を身籠らせたレナードを邸に呼び、冒頭に触れた事件に繋がったのである。

 長男を「故殺罪」で逮捕され、すっかり消沈し、空洞感を広げるヘンリー。

 結局、そのヘンリーを最後まで支え切るのはマーガレットだった。

 彼女こそ、異文化間の葛藤や摩擦を、限りなく希釈化させる役割を担う最も重要な人物だったという訳だ。

 原作者のE・M・フォースターや、作り手のジェームズ・アイヴォリーは、このマーガレットの存在に、異文化間の対立を収斂させていく人物造形として描き切っていたのである。

 そこに、「多文化共存の思想」を主唱するヒューマニズムが垣間見えるだろう。

 最も階級意識が強いが故に、揶揄の対象になっていると言われる「ロウアー・ミドル・クラス」の中にあって、最も階級意識が希釈だったマーガレットと、結果的に、「ワーキングクラス」の青年の生命を代償にしてまで、「アッパー・ミドル・クラス」に「反逆」したヘレンの、その行動様態を貫流する階級意識の濃度の深さの対比のうちに、本作の人物造形の妙を読み取ることが可能であった。

 複雑な葛藤を精緻に描き切った秀逸な人間ドラマは、ヘレンが産んだ子供の幸福の未来を予想される軟着点に収斂されていった。

 この異文化間の葛藤が最終的に集合する「ハワーズ・エンド」で、遂に沸点と化した矛盾が故殺事件に雪崩れ込み、結局、マーガレットのような人格像の挿入によってしか軟着点を見い出せない物語の結晶が、そこに表現されていたのである。

 「ハワーズ・エンド」とは、程なく大戦に突入する英独という国民国家の問題も含めて、「異文化間の葛藤・対立」の極点であると同時に、その調和の象徴でもあったのだ。


(人生論的映画評論/ハワーズ・エンド('92)  ジェームズ・アイヴォリー <「異文化間の葛藤・対立」の極点であると同時に、その調和の象徴としての「ハワーズ・エンド」>」)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2010/11/92.html