青春の殺人者('76) 長谷川和彦 <過剰把握された青春の自立の脆弱性、或いは、自己を相対化し得た若者の心の軌跡>

 1  「解放的自我」とは無縁な若者の破壊の内実



 このような環境下で、このような育てられ方をすれば、このような若者が生まれ、且つ、その若者が、このような状況下に置かれれば、このような犯罪を犯すかも知れないという説得力において、本作を凌駕する作品と出会ったことがないと思わせる映画 ――― それが「青春の殺人者」だった。

 「親殺し」という、忌まわしき禁断の世界に踏み入れた若者の自我の脆弱さ。

 その自我を作り上げた父母の、過剰把握の様態。

 そして、その過剰把握の現実を破壊した若者の、その近未来に待つ世界のイメージの貧困さ。

 それが、本作の全てかも知れない。

 若者の自我を雁字搦めに縛り上げていた、「絶対的体制」を破壊し尽くして手に入れたものの内実は、本来それでなければならないと思わせるような、実存的な未来を切り拓く「解放的自我」とは無縁な何かだった。

 その空洞感は、自分が犯した忌まわしき行為の報酬と完全に乖離していて、若者の「新しき旅立ち」を蠱惑(こわく)的に彩る、原色系の世界のイメージに届き得ない、寒々とした風景を露わにするばかりだった。

 なぜ、そうなってしまったのか。

 なぜ、若者は「解放的自我」を手に入れられなかったのか。

 映像の前半で、その辺りの中枢に澱む基幹テーマが提示されていたと言っていい。

 若者の「親殺し」を描いた本作の基幹テーマは、主人公の若者と、その両親との関係の歪みと、その歪みによる破壊を描いた前半3分の1の映像の中で、殆ど語り尽くされていたであろう。

 以下、映像前半で語り尽くされていた物語を再現してみよう。

 そこに登場するのは、若者と、その父母である。

 若者の名は、斉木順(以下、「順」、または「若者」、「息子」)。

 その父母の固有名詞は、紹介されることはない。

 恐らく、この時代に生きた「戦中派」に特有な、「糊口を凌いで、困難な時代を抜けて来た人々」という記号性が、件の「両親」のイメージに被せてあるのだろう。



(人生論的映画評論/青春の殺人者('76) 長谷川和彦 <過剰把握された青春の自立の脆弱性、或いは、自己を相対化し得た若者の心の軌跡>)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2011/04/76.html