遅れてきた「反抗的なエロス青年」 ―― その情感系の暴走

 「卒業して いったい何解ると言うのか 想い出のほかに 何が残るというのか 人は誰も縛られた かよわき子羊ならば 先生あなたは かよわき大人の代弁者なのか 俺達の怒り どこへ向うべきなのか これからは 何が俺を縛りつけるだろう あと何度自分自身 卒業すれば 本当の自分に たどりつけるだろう」

 これはあまりに有名な、「卒業」という名の「お子様ソング」の歌詞の一節である。作者は言わずと知れた、「10代のカリスマ」尾崎豊(在りし日の写真)。

 明かにこの青年は、青年自身の「敵」の存在を見失っている。

 確かにそこには、「管理者集団」としの教師という、特化された「敵」のイメージが仮構されているが、しかしそれは、「敵対者」としての鮮明な身体性を持ち得ない、観念的な存在性を超える以上の何かではないのだ。

 そこで吐き出された言語は、青年の他の稚拙な詩集の多くを含めて、定点を失った青春の情感系の、その児戯的な氾濫というイメージを強く印象づけてしまうのである。それは、青年の「情感系の暴走」の中枢の空洞性をも感受させるに足る情感言語なのだ。

 青年には、それを破砕し得るに値する、本来的な「敵」が存在しなかったのではないか。学校も、芸能界も、そして国家権力さえも、青年には「敵」ではなかったに違いない。それ故に青年は、観念の世界で「敵」を仮構するより他はなかったのか。人間を管理しようとするもの一切が「敵」である、という風に。これが、彼の「情感系の暴走」が分娩した第一の不幸である。

 第二の不幸は、自ら仮構した観念世界の「敵」と戦う仲間を作り出せなかったことである。観念の「敵」と一緒に戦う仲間など、最初から見つかるはずもないからだ。

 なぜ尾崎豊は、かくも児戯的な世界に遊んでいたのか。

 私には、青年の自我があまりにも未成熟なレベルで停滞していたようにしか思えない。そして、それこそが彼の「情感系の暴走」が分娩した第三の不幸であったと言えないか。

 人はしばしば、青年のように、社会に適応し得るに必要な分だけ社会化されてない自我に対して、「純粋」という、時には讃辞とも聞こえるような評価を賦与する。一部の芸術家がこの評価を特権化して、破天荒な日常世界を気取って見せたりする文化風土が、どこの社会にも存在するからだ。

 「純粋」とは、過剰な自意識が、まさにその過剰性ゆえに、必要最低限の自我成熟を果たし得ない不幸の別名である場合があまりに多い。青年の未成熟な自我は、結局、風車と戦うラ・マンチャの男の脚力と気概にすら届き得ずに、一時(いっとき)、禁断の薬の囚人となった。青年は遂に、自分自身を「敵」として仮構してしまったのか。

 大人の世界の、あまりに複雑な事情を認識する能力を持ち得ないティーンエージャーだけが、尾崎の仮構した観念の世界に、そこに助けを求める者のようにして、存分なまでの心情を寄せた。かくて青年は、あまりに短い青春を激走し、伝説化されていったのである。

 今となっては、その異常なる死の経緯の内に、果たしてどのような「隠された真実」が含まれていたか全く知る由もないが、この国の多くの夭折詩人がそうであったように、青年もまた、時代の「閉塞感」を突き抜けた、「早世したピュアなるミュージシャン」という「栄光」を不必要なまでに被浴し、「青春の困難な状況」を疾風の如く駆け抜けた「絶対ヒーロー」として、今なお、孤独な青春に寄り添っているのか。

 思えば尾崎豊は、遅れてきた「反抗的なエロス青年」であった。

 その自我の内に、「敵」すらも具象化できない現代社会こそ「不幸」と呼ぶべきなのか。現代では、「青春」という物語が変質してしまったのか。

 恐らく、青春の輝きは「敵」の強大な権力に比例し、しかもほどほどに強大であるほど増していく。そして「敵」は、常に実体性と具体性を持たねばなならない。「敵」の存在が抽象化するほど、青春は輝きを失うのだ。このことは、青春にとって最初の「敵」が「親」であり、「教師」であることを考えれば了解し得るだろう。

 しかし現代の青春にあって、親の存在はダブルバインドで自分を包み込み、過剰な情緒攻勢が不満の芽を摘んでしまうのだ。限りなくフレンドリー化した父親の存在は、青春にとって打倒すべき何ものかではなくなった。青春にとって、唯一の「敵」は教師集団のみになったのである。

 「敵」はほどほどの強さのときこそ、自己を敵対視する人格対象を鍛えるのだが、本来、普通の強さか、或いは、その普通の権力性をも持ち得ない数多の教師集団の存在それ自身が、学校空間において、自分の私権の拡大的主張を妨害する、厄介極まる「管理者集団」としか把握できなくなっているのだ。

 高校時代の尾崎豊もまた、「反抗的なエロス少年」であった。

 しかし少年には、共に戦う仲間が存在しなかった。共に闘って、倒さねばならない「敵」として、少年の通った学校の存在の「権力性」が、他の生徒たちの自我には特段に意識され、厄介視されていなかったからだ。尾崎豊という個我は、最初から「孤独なるエロス少年」として振舞う以外になかったのか。

 「敵」を仮構できない青春は憐れである、と考えるのは大人の感傷であるのか。

 そもそも、「敵」とは何か。

 異質な価値観を持ち、その存在によって自らの自我の安定を崩してしまう不安を抱かせる存在それ自身である。その意味で、青春の最初の「敵」は青春それ自身と言っていいだろう。

 思春期のテストステロンなどの男性ホルモンの分泌によって、青春は自分の中に全く異質の現象のうねりを経験し、しばしばそれに翻弄され、突き上げられ、名状し難い恐れや不安、時めきや感動、と言った過剰な衝動に動かされるのである。内なる攻撃性を感覚的に認知したとき、既に青春は独自の航跡を描き始めているのだ。青春の衝動とは、その体内に、これまでのそれとは別の自我が胚胎することによって起こる、ある種の生物学的必然性の帰結であるだろう。

 青春の最初の「敵」は、まさに自分自身なのである。

 やがてその新しい生命の展開は、その展開に驚き、しばしば怯懦(きょうだ)する周囲の大人たちの抑圧に阻まれるという、殆ど原則的な展開に立ち会うに至るであろう。青春は、その展開の直接的な対峙者である親たちの存在に、第二の「敵」を見出すことになるのだ。

 ここで青春は、自らの自我の支配の枠組みを超えて、「法治下の社会」という未知なる世界に飛び出していく。「敵」の存在が、今度は社会の中で再発見されていくのだ。その世界での青春の彷徨は、新たなる敵との遭遇でもあると言っていい。それらは時とともに様変わりするが、常に程々に強大であることによって、青春を鍛え上げていくのである。

 些か尖った青春が自己顕示的に暴れようとも、簡単に命までは取らないというルールのない社会では、厄介極まる青春に「殉教者」という栄光を賦与するものの、青春のパトスは、普遍的な輝きを放ち得ないだろう。暴力を含む異議申し立て者の生命までは保証し得る民主社会の保守政権こそは、青春の最良の「敵」になると言えないか。

 現代社会は、青春の「敵」としてイメージするにはあまりに物分かりの良い社会になり過ぎてしまった。子供の自殺予告に政府国民が一体となって、救済シグナルを大仰に放ち続ける社会の中で、子供の自我の成熟は著しく遅れ、自らの内側に見出した「敵」との戦いは、己の性的感情の処理という方向の中にしか実現しないかのようだ。

 ここに、尾崎豊の仮構した戦いの世界の本質がある。

 彼は高校を中退して、その本来の反抗的エロスを、学校に象徴される管理社会との観念との戦いの内に爆発させた。ティーンエージャーが熱狂したのはこの部分である。

 然るに尾崎は、芸能界という損得原理で動く社会に身を沈め、もがき苦しんだであろうことが推測される。

 彼は、現代社会がエロス原理と損得原理の結合によって動いている社会であることを、恐らく、充分に認識できていなかったであろう。メッセンジャーとしての尾崎のエロスは、興奮の坩堝(るつぼ)と化したステージの上でのみ解放されたのである。或いは彼は、道化的なメッセンジャーとしての自分の役割の限界に気づき、それを突破しようと考えていたのかも知れない。

 しかしステージの外には、尾崎流のエロスの解放を受容する条件など全く存在していなかった。若者たちの多くは、サザンオールスターズのような、インパクトのある社会的メッセージを持たない、「丸ごとエロス」のミュージックを支持していたのである。

 尾崎に熱中した子供たちの多くは、まもなく、現代社会の様々な機構に吸収されていく。尾崎を忘れられない自我だけが、社会との適度なスタンスを取りながら、自らのエロスを小出しにして、青春という物語を引き摺っていくだろう。

 そして圧倒的に多くの青少年たちは、社会への反発も反抗も、まして反乱への飛躍を果たすことなく、「丸ごとエロス」の世界を生きていくに違いない。一体、誰がこの感性濃度の様態を責められようか。
 
 
(「心の風景/遅れてきた「反抗的なエロス青年」 ―― その情感系の暴走 」より)http://www.freezilx2g.com/2009/05/blog-post.html(2012年7月5日よりアドレスが変わりました)