何者かであること

 人間は、自分が何者でもないことに耐えられない生き物であるらしい。

 自分が何者かであるということを認知された者は、その認知を更に高く固め上げていかないと不安になり、自分が何者かであることを未だ充分に認知されていない者は、認知を得るために必要であると信じる何かへの一歩を既に踏み出している。

 この一歩一歩が、認知を求める者の日々の糧となっていて、上昇することを止められない人生を、いよいよ固くガードする。その一歩一歩が身の丈を超えず、緩慢な徐行を混じえて推移していけば、局面ごとに擬似完結感を手に入れることができようが、性急な上昇志向者の宇宙では、熱源が間断なく臨界ラインに迫っていて、その過剰な滾(たぎ)りが日常性をすっかり被覆してしまっている。何者かでない者が、何者かであろうとする行程で消費される熱量はあまりに厖大なため、常に臨界運転を迫られるのである。
 
 それでもある種の人々は、何者かであること、何者かであらねばならないために動くこと、何者かとなってそれを固めること、そのために動くこと、動き続けることを簡単に捨てられないようなのである。

 何者かであろうとするために臨界運転を続けることは、何者かに化けていくときの、えも言われぬ快感のシャワーの被浴なしには困難である。

 「プロセスの快楽」こそが、昇りゆく者たちの日常的気分を補っている。この快楽が人を尖り立てない者に設(しつら)える。「プロセスの快楽」が保証する擬似完結感は、共同体を失った現代人にとって、それ以上ない魔法の媚薬なのである。

 この媚薬なしに臨界運転を続けられたら、どうなるか。そのドライバーはいよいよ尖り立つ者に化けていって、早晩、自己管理の困難な状況を晒すであろう。そこに他者を媒介させるから、其処彼処(そこかしこ)で傲慢な振舞いが撒き散らされるに違いない。

 何者でもない者が、何者かであろうとすることの弊害がそこに集合し、何者であろうかとしない者の無力を衝き、何者かであろうとする先行者の足元を掬い、何者かであろうとする後続者の自我に襲いかかっていくのだ。

 人はそこまでして、何者かであろうとすることに、しばしば固執するのか。

 何者でもない者が、何者でもないことに耐えられる時代の幕が降りてから、人々は何者かであることの確認なしに時代と繋がれず、その時代を降りることも儘(まま)ならず、変形の魔力に駆り立てられて、泡立ちの幻想の森に踊っている。
 
 人は所詮、大海の中では何者でもないと同時に、それぞれの箱庭にあっては確実に何者かではある。その基幹の文脈を丸ごと受容できれば、何ものも起らない。何ものも始まらない。何ものも作り出さないかも知れないが、それもまた一つの知恵ではある。

 この知恵が絶え絶えになって、熱風に焦がされているのだ。それでも声高に叫ぶことを嫌う尖りの少ない精神がひっそりと伝承されて、ちまちまと呼吸を繋いでいる。
 
 
(「心の風景/何者かであること」より)http://www.freezilx2g.com/2008/11/blog-post_02.html(2012年7月5日よりアドレスが変わりました)