病識からの自己解放

 「病気」とは何だろうか。

 38度の熱があっても普通に生活するなら、恐らく、その人は「病気」ではない。

 微熱が気になって仕事に集中できない人がいるなら、その人は「病気」であると言っていい。

 「病人」とは、自らを「病気」であると認識する人である。

 「病気」とは「病識」なのである。

 従って、統合失調症のように、自分の「病識」を認知しない(できない)特定の「病人」を除けば、基本的に「病識」を持つ人は、全て「病人」であると言えるのだ。

 医療とは、本質的に「病人」の心を治療する行為であると言えないだろうか。

 その曖昧過ぎる拡大解釈は、医療従事者にとって苛酷であることを認知しつつも、医療の本質に踏み込んでしまえば、「病人」の自我から「病識」を取り除く仕事こそ医療であるとも言えるだろう。

 極言すれば、人間なら誰でも「医者」になり得るのである。

 「心配ないよ」という疾病経験者の励ましが、最強の薬剤になることもあるし、他人の闘病の経験談を聞くことで、自分が罹患していると信じる「病気」が立ちどころに治ってしまうこともある。

 それらの情報の確度の高い発信者への信頼感が、「『罹患している自分の現在性』という違和感」を相対化し切ってしまうのだ。

 無論、その全てではないが、心理学で有名なプラセボ(偽薬)効果ほど、医療がどこに拠って立っているかを端的に示す例はない。

 薬を服用しているという安寧感による「心理効果のバイアス」の状態こそが、最強の薬剤の効果を保証してしまうのだ。

 医療がどれほど近代化しようとも、それが、「病識」を持つ人格主体の自我を安定化させる効果を保証するものであることは永劫に変わらないだろう。

 明瞭な「病識」を持つ、「患者」という名の対象人格の自我に張り付く、負性のイメージを希釈化させるためのアウトリーチを表現せずして、本来の医療は成り立たないのだ。

 QOL(クオリティ・オブ・ライフ=生活の質)と濃密にリンクする、インフォームド・コンセント、EHR、PHR(共に医療情報の共有化を意味)などという重要な概念も、「病識」を持つ「患者」の心を解放するプロセスとして把握される必要がある。

 「病人」の心から「病識」を取り除くことが医療のメインテーマであるからこそ、「医者」と「患者」という関係力学への比重が弥増(いやま)していくのである。

 アメリカで盛んなセカンド・オピニオンという医療文化は、遠からず日本にも直輸入されるだろうが、ホームドクター制も根付いていない国に、この方法論は馴染まない。

 次々と医療機関を変える「ドクター・ショッピング」を続ければ、「患者」当人の心から、確実に「覚悟性」が稀薄になっていく。

 「覚悟性」が稀薄になった「患者」は、恐らく、反比例的に「病識」の濃度を深めていくだろう。

 当人の心の中に不安が高まって、「病気」を克服する気概が次第に済し崩しになっていくのである。

 誤解を恐れずに言えば、「病気」を治すことを、一つの賭け事の如く考えてもいいのだ。

 「この人に任せる」という気持ちが、既にギャンブルなのである。

 「病識」からの解放を託せる人との出会いから、全ての医療は出発するのである。

 誇張して言えば、今度は患者主体にとって苛酷なようだが、託した医師のミスから失命しても、それを受容し得る覚悟で内側を固めていくことで、その気概が「病識」からの自己解放を果たすことになる。

 私自身の経験を踏まえても、それが厄介なテーマであることを認めてもなお、「病識」からの自己解放こそが究極の医療であると考えるが故に、敢えて言及したいのである。

 自己解放力の達成度を高めていければ、私たちはもう何も望む必要がない。

 絶えず自分の抵抗虚弱点(自分の身体の最も弱い点)を見据えていって、それを少し合理的に補填していければ、私たちはそれ以上何も欲する必要もない。

 私の内側に発し、私の内側で認知し、その内側を解放していく。

 その気概を捨てなければいいのである。
 
 
(心の風景 「病識からの自己解放」 より)http://www.freezilx2g.com/2010/11/blog-post_01.html(2012年7月5日よりアドレスが変わりました)