隠された記憶('05) ミヒャエル・ハネケ <メディアが捕捉し得ない「神の視線」の投入による、内なる「疚しさ」と対峙させる映像的問題提示>

イメージ 1 1  個人が「罪」とどう向き合っているかについての映画



 「私たちはメディアによって操作されているのではないか?」

 この問題意識がミヒャエル・ハネケ監督の根柢にあって、それを炙り出すために取った手法がビデオテープの利用であった。

 覗き趣味に堕しかねないビデオテープを、「メディアの真実性を問う」ツールとして巧みに活用し、ミステリー映画として立ち上げることで生み出したものは、今や、「何を伝えたか」という視座ではなく、「何を伝えなかったか」という鋭利な視座が問われている、高度な科学文明の現状を包括している状況を見れば、既にメディアの欺瞞性を問うというテーマの帰趨が鮮明化されている事態をも超えて、ビデオテープによって捕捉された対象人格が、ごく普通に遣り過ごしている虚飾と欺瞞の意識体系の奥深くに封印する「闇の記憶」であった。

 それは、テレビ局という代表的なマスメディアに勤める、人気キャスターの家屋の外貌が、一台の定点カメラで映し出される冒頭のシーンによって開かれた物語の中で、じわじわと執拗に炙り出されていく。

 同様に出版社というメディアに勤務する妻を持つ、件の人気キャスターの心中で封印している「疚しさ」を、「闇の記憶」から炙り出し、追い詰めて、相対的に安定した日常性を破綻させていくのだ。
 
それに近い同義の文脈を持って、ミヒャエル・ハネケ監督(画像)は語るのである。

 然るに、その〈生〉の包括的な内実の中で、そこに様々な意識の有りようの差異があろうとも、「疚しさ」を持たない人間など、果たしてどこにいるだろうか。

 私自身のことを考えても、それが「犯罪」でなくとも、封印したい「疚しさ」の記憶が少なからずある。

 それらは、人間の脳の基本的機能の一つである、「記憶」として鮮明であるものが大半だから、張り巡らせた防衛機制によって、単に個人的問題の軽微な何かとして処理され、現在の〈生〉を脅かすに足るものになっていないだけである。

 その意味で、「疚しさ」の希釈化の問題は、意識の内部で惹起した矛盾を、「認知的不協和理論」などで合理化する自己防衛機能の発現であることと同義の文脈であると言っていい。

 ただ、この「疚しさ」が、個人的問題の軽微な何かとして処理されない毒性を持ち、じわじわと現在の〈生〉を脅かしていったらどうなるか。

 ハネケ監督は、まさにこの類の「疚しさ」が内包する問題に注目し、それをミステリーの体裁を仮構する戦略的映像のうちに立ち上げたのである。
 
何より、ハネケ監督にとって、この類の「疚しさ」 が内包する問題とは、「個人の罪と集団(国家)の罪が重なり合う事態」となったときに惹起された心の攪乱であり、それによる、拠って立つ自我の安寧の基盤の破綻の問題でもあった。

 「先進国で生きるわれわれは絶対に後進国や貧しい人々を犠牲にして高い生活水準を保っている」ことの罪悪感を、ハネケ監督は厳しく問うのだ。

 然るに、「政治的なメッセージを込めた映画」を嫌うハネケ監督は、その由々しきテーマを、いつものように、「個人が『罪』とどう向き合っているかについての映画」に変えていく。

 人間の心理学的洞察に抜きん出たハネケ監督には、その得意分野を駆使した手法が最も有効性を持ち得るのだろうが、それにも関わらず、豊かさを占有することに鈍感過ぎると断じる先進国の既得権者(豊かな中産階級者)たちに対して、最低限の「疚しさ」を感受させ、その意識を極限まで突き詰め、己が〈生〉の根源的問題のうちに反芻させることによって、自足的な既得権を持ち得ない後進国の人々が捕縛されている様々な困窮の問題の、その負のイメージを炙り出していくという本作の物語構成それ自身が、既に、鋭利な政治的メッセージになっている事実だけは認知せざるを得ないのである。
その辺りに、典型的な階級社会であるフランス等の国家に呼吸を繋ぐ、一部の知識人たちの憤怒を感じ取ることができるだろうが、格差の弊害が指弾されつつも、件の階級社会の袋小路の状況性から相対的に解放され、「パラダイス鎖国」の如き印象をなお脱色し得ない、我が国に呼吸を繋ぐ大方の人々から見れば、ハネケ監督の憤怒の熱源の有りように想像力が及ばないのもまた、由々しき現実であるのだろうか。

 それ故にこそと言うべきか、ハネケ監督は、ポップコーン・ムービーの乗りで自作を観る者たちへの、適度な警鐘を打ち鳴らす「悪意」を存分に込めて、このような厳しい映像を突き付けてきたに違いない。

 従って、適度な警鐘を打ち鳴らされたであろう鑑賞者は、このような映像作家による、このような厳しい映像と向き合うとき、何よりも、作り手の基幹の主張と、肝心のマスメディアの多くがスル―しかねない、その背景となっている時代の見えにくい風景への最低限の情報の確保による理解・把握が、切に求められるのもまた否定できないのだ。

 それなしには、本作で描かれた主人公の「疚しさ」の根源的問題に迫り得ないだろう。

 そう思わざるをない映像を、ハネケ監督は構築したのである。

 
 
(人生論的映画評論/隠された記憶('05) ミヒャエル・ハネケ <メディアが捕捉し得ない「神の視線」の投入による、内なる「疚しさ」と対峙させる映像的問題提示>)より抜粋http://zilge.blogspot.jp/2011/10/05.html