グラン・トリノ('08)  クリント・イーストウッド<「贖罪の自己完結」としての「弱者救済のナルシシズム」に酩酊するスーパーマン活劇>

イメージ 1 1  「否定的自己像」を鋭角的に刺激する危うさに呑み込まれた、頑迷固陋の「全身アメリカ人」



 頑固とは、自己像への過剰な拘泥である。

 そのために、自分の行動傾向や価値観が環境に適応しにくい態度形成を常態化させていて、且つ、その態度形成のうちに特段の矛盾を感受しない人格を肯定化することによって、自分の行動傾向や価値観と背馳(はいち)すると信じる時間を延長させていく、偏頗(へんぱ)なる情感体系である。

 そんな頑固さと共存する態度形成の中で、最も求心力を発現し得る倫理感覚には、「転嫁しない責任」、「退路を断つ覚悟」、「迷いなき決断」などという「美徳」などが含まれるだろう。

 しかし、この自己像の内実が、決して「肯定的自己像」によって固められないトラウマを持つことで(「俺は、毎日忘れたことがない」という、本作の主人公の台詞あり)、そこに張り付く「否定的自己像」で強化された、差別言辞丸出しの頑迷固陋(がんめいころう)の老人が、ある事件を契機にして、鋭角的な攻撃性に囲繞されることで、看過し難い刺激情報のシャワーを被浴してしまったらどうなるか。

 少なくとも、件の頑迷固陋の主は、その〈状況〉を狡猾な手口でスルーしていく態度だけは身体化しないだろう。

 しかし、その状況が、いよいよ「否定的自己像」を鋭角的に刺激する危うさに呑み込まれてしまったならば、まさに、その〈状況〉の中枢を「死に場所」と考えて、看過し難い刺激情報のシャワーを放つ連中との、全人格を賭けた「直接対決」を辞さないはずだ。

その「直接対決」の結末が、贖罪の果ての「墓場」と化すのは、このような「否定的自己像」を繋いできた男には、殆ど必然的であったに違いない。

 思うに、ここまでの心理の振れ具合には特段の瑕疵がない。

 ところが、「直接対決」による、贖罪の果ての「墓場」への自己投入という、その必然的な物語構成を、あろうことか、「歴史博物館に収納され、化石化した西部劇」のオールドファッションのパターンを踏襲する、お座成りな演出で貫徹してしまったのである。

 少なくとも、私にはそう思えた。

 だから私にとって、唾棄すべき、「定番的なヒューマンドラマの凡作」を見せつけられてしまったという印象しかない。

 最もパワーと無縁な存在が、最もパワーに溢れた存在と「直接対決」し、最もパワーの行使を嫌う存在を、文字通り生命を賭して救う。

 最もパワーと無縁な存在とは、ウォルト・コワルスキー。

 80歳近い老人という設定だからだ(以下、「ウォルト老」、または「男」と呼ぶ)。
 
最もパワーに溢れた存在とは、隣家に住む、モン族のタオ少年の従兄たちの不良グループ(以下、「不良グループ」と呼ぶ)。

 最もパワーの行使を嫌う存在とは、ウォルト老の隣家に住むモン族のタオ少年(以下、「タオ」、または「少年」と呼ぶ)。

 しかも、ポーランド系でありながら、その魂は、家屋の修繕と庭の芝生を存分に刈り込む作業を日課として、中流の代名詞の如き家屋の前に、そこだけは常に眩い国旗を堂々と掲げ、「自治の論理」を貫徹するのだ。

 WASP ではないが故にか、「全身アメリカ人」の白人であるウォルト老が、悪態をつく相手でもあった、異文化のモン族(東南アジアに住む少数民族の一つ)とクロスし、そこに「友愛」の旗を立てる。

このシンプルな設定は、「弱気を助け、強気を挫く」という典型的な勧善懲悪のパターン。

 そこに、「命令もされず、自らやったということが恐ろしいのだ」というトラウマと化すモチーフをべったりと張り付けることで、「弱気を助け、強気を挫く」という行為それ自身が、ウォルト老の重大な贖罪のテーマとして、彼の自我のうちに包摂されていく心理構造を常態化する。

 要するに、贖罪対象と化したこの行為が、「命令もされず、自らやったということ」への贖罪的反転によって、「17歳の少年をシャベルで殴り殺した」という、朝鮮戦争時のトラウマへの内的処理に変換し得る「物語」のうちに、ヘビーな「脱出口」を用意することで、アメリカ社会の「現在性」への批判的的総括という把握を含意させたつもりかも知れないが、その見え見えの映像構成はあまりにもお座成りで、独善的過ぎたものだったから始末に悪かった。

 以下、辛辣な批評をしていく。

 我が国の様々なフィールドからの絶賛の評価が信じられない程、私の受容耐性の限界を超える凡作だったからである。



 2  「憧憬すべきモデル」としてのイーストウッドの求心力



 例によって、「キネ旬1位」という最大級のトリビュート。
 
この国のイーストウッド贔屓のアホな評論家連中が、「“神の腕”と呼ばれてもおかしくないくらい感動的なものであります」(おすぎ)などと大法螺(おおぼら)を吹聴し、「俺は迷っていた、人生の締めくくり方を。少年は知らなかった、人生の始め方を」という配給会社の、訴求力抜群のキャッチコピーの逆巻く怒涛のラッシュ。

 この求心力は絶大だ。

 この商売上手な広告に誘(いざな)われて、多くのシネマディクトがシネコンに足を運び、その知ったかぶりのトリビュートが、「リトルの公式」(待ち時間の算定公式)を斟酌せねばならないような、数多の観客のラインを作り出す。

 何と、Yahoo!の映画サイトのユーザーレビューには、1800件以上のコメントが群れを成していたので、数十件まで眼を通しただけで断念したほど。

 そのシネコンで、2時間弱の「名作」を観たとする。

 思いの外、感動を手に入れられなかった者は、寡黙になる。

 しかし、「何となく良かった」という感懐を抱いた者か、或いは、それ以上の感動を手に入れたと信じる者たちは、均しく、「最高だ!」と声高に吹聴する。

 「人間の気高さ、誇り、心の奥底に秘めたやさしさ。そう、私たち日本人も気づく時が来た。人はいつだって変われる」(鳥越俊太郎

 オフィシャルサイトの、このコメントに接したとき、私は思わず吹き出してしまった。

 「私たち日本人も気づく時が来た」などと脳天気な説教を垂れる、見識張ったジャーナリストの、こんな称賛の後ろ盾を持つことで、そこに「本年度ベストワン」という評価が定まる。

 ここに「空気」が形成される。

 この「空気」が、この国の人たちの「共通言語」となり、SNS等々のサロンの場で、薄気味悪い情感を共有するに至るのだ。

 この国では、主にメディアが作り出す「意見」が、大抵「世論」となり、この「世論」が「空気」の主潮を醸成するのである。

 「世間圧」を隠し込んだ「空気」が、一切を仕切っていくのだ。

 都市化による私権の拡大的定着によって、「世間」が解体されてきた現代では、「世論」の趨勢はメディア次第という状況に変容しつつあるから、「空気」の主潮を読み抜く能力だけが特化されていくだろう。

 映像文化のフィールドでは、民主党支持者が占有するハリウッドのリベラル文化人の中で、個人の独立・自治を標榜する共和党穏健派に近い政治スタンスをとり、イラク戦争にも反対したイーストウッドの凛として、揺るがないようなバランス感覚を保持するかの如き、「強き善きアメリカン」の求心力は、「空気」の漂流に身を委ねる多くの日本人には、格好の「憧憬すべきモデル」になるに違いない。

 人間は自分になくて、その補填を求める何かを他者の中に見い出すとき、そこで特定化された他者の存在自身が、眩く映る心理傾向を持つからだ。

 まさに、そのような「憧憬すべきモデル」になり得る、イーストウッドの求心力は絶大なのだろう。

 私も個人的には、イースト ウッドの人格が放つオーラとは無縁に、その凛とした姿勢や政治スタンスには多いに惹かれるものがあるが、彼の映画となると、また別の問題である。

 当然過ぎることだが、私にとって映画評論の尺度は、基本的に「完成度の高さ」にのみ限定されるので、正直、最も厭悪するレフトウイングやリベラルの立場、または、限りなくそれに近い立ち位置にある作り手の作品でも、「完成度の高さ」によって評価し、感銘した内実を記述するようにしている。

 リベラル派が多い文化フイールドを認知しつつも、作り手の政治スタンスなど、私にはどうでもいいことなのだ。

正直言って、「役柄限定」の俳優としてのイーストウッドの表現力には大いに不満があり、且つ、彼が演出する映像に関しては、最も評価している「ミリオンダラー・ベイビー」(2004年製作)を除けば、特段に好悪の感情を持つことはない。

 しかし、本作だけは許容し難いのだ。

 スーパーマン映画に過ぎなかった「許されざる者」(1992年製作)でも不満を抱いたが、「現代版西部劇」の本作に関しては、以下に言及する理由によって、とうてい受容し得るものではなかった。

 かなり挑発的な物言いをしたが、私には本作の「凡作性」を目の当たりにしたとき、なぜ、人々がかくも熱狂する程の評価を、この映画に付与するのか、想像できるだけに、湧昇流のように噴き上がってくる不快感を封印し難かったのである。


 
(人生論的映画評論/グラン・トリノ('08)  クリント・イーストウッド<「贖罪の自己完結」としての「弱者救済のナルシシズム」に酩酊するスーパーマン活劇>)より抜粋http://zilge.blogspot.jp/2011/03/08.html