1 孤立した男
映画の原題である「ODD MAN OUT」、即ち、「孤立した男」という意味が、本作の全てを表している。
序盤の20分で、組織から「孤立した男」が、重傷を負って逃亡する暗鬱な半日を描くシークエンスの嚆矢(こうし)にシフトし、それがラストシーンにまで流れていくのだ。
「やっぱり、ジョニーには無理な仕事だったんだ」
ジョニーとは、警察の捜査網から追われる逃亡者のこと。
本作は、組織の仲間に同情されるジョニーという男の、絶望的なまでの孤立感を描く物語である。
その組織の仲間も、懸賞金目当てで信頼する女に警察に売られて、殺害されるシーンに見られるように、サスペンスフルで、冷厳なリアリズムによって貫徹される映像構成は抜きん出ていた。
以下、批評含みで、物語を追っていきたい。
2 「受容型関与」と「利益追求型関与」 ―― インボルブされた人々の行動様態
「この映画の舞台は北アイルランドだが、体制と非合法の闘争が、テーマではない。事件に巻き込まれた人々の反応を描いたものだ」
冷厳なリアリズムの筆致と、ヒューマニズムの精神を程好く均衡させた本作のテーマは、以上の冒頭のキャプションの内に集約されるものであろう。
従って本作は、IRAの活動をテーマにしたものではない。
本作の製作時の制約もあってか、ここでは政治的なメッセージを拾い上げることはできない。
ここで描かれたのは、IRAの支部組織による資金調達のための工場襲撃を指導した男が、図らずも逃亡に失敗し、殺人事件を犯したばかりか、自らも重傷を負って逃亡する暗鬱な半日である。
このようなフィルム・ノワールのリアルな手法で表現されるとき、モノクロのフィルムに光と影が交錯する、キャロル・リード監督独特の映像宇宙が冴えまくっていく。
そして、そのフィルム・ノワールの暗鬱な半日の中で、男の出口なき逃亡行程にインボルブされた人々の行動様態や、その心理の振幅を鋭利に描き出していくのだ。
私は、ジョニーという男の逃亡行程にインボルブされたか、或いは、利益目的でそこに近接した者たちを、一応類型的に大別してみた。
以下の通りである。
1 「受容型関与」
2 「利益追求型関与」
ここで重要なのは、このIRAの殺人犯に懸賞金がかけられたことで、そこに絡んで、逃亡者であるジョニーを「商品価値」として見るか否かという点である。
それが、1と2の大別の根拠である。
更に私は、逃亡者を「商品価値」として見ない1に属する人々を、「完全受容」(全人格的受容)、「倫理的受容」、「防衛的受容」と分けてみた。
当然、その逆のパターンの者が「利益追求型関与」。
まず、1の「完全受容」(全人格的受容)に該当する者は、逃亡者であるジョニーを心から愛する女性、キャスリーンの存在以外ではない。
そして、「倫理的受容」に属する象徴的人物はトム神父。
ここに、その二人の会話がある。
その経緯は、雨で濡れた路傍で倒れているジョニーを匿う浮浪者が、彼を案じる神父に金をふっかけ、売ろうとしたことだが、それを契機にした会話である。
「ジョニーを私に下さい」とキャスリーン。
「品物ではないよ」とトム神父。
「どうなさるの?」
「彼は死にかけているようだ。懺悔を聞いて、慰めてやりたい。自首を勧めるよ。仲間の所へ返したら、また、人を殺したりするだろう」
「私が遠くへ連れてって、ご迷惑をかけませんわ」
「匿う気かね?」
「はい」
「人を殺した罪を償わねばならない」
「いっそ、私の手で彼を・・・」
「それはいけないよ」
「なぜ?死刑の方が可哀想ですわ」
「君はどうなる?」
「一緒に」
「何てことを!」
「彼が捕まったら、裁判やら、処刑やら・・・とても耐えられません」
「私の力は、信仰より強いんです」と言い切って、キャスリーンは、「愛」の力で彼に寄り添い、苦悩を共有し、自らの手で殺めようとするのだ。
共に慈愛による「受容型関与」ながら、「完全受容」の女と、どこまでも「信仰」という絶対規範によって行動しようとする、「倫理的受容」の神父との対極の構図がくっきりと映し出されたシーンであった。
この説明的会話は、ラストシーンの重要な伏線になると同時に、作り手のメッセージに通じるので、最後に言及する。
(人生論的映画評論/邪魔者は殺せ('47) キャロル・リード<「受容型関与」と「利益追求型関与」 ―― インボルブされた人々の行動様態>)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2011/03/47_26.html
映画の原題である「ODD MAN OUT」、即ち、「孤立した男」という意味が、本作の全てを表している。
序盤の20分で、組織から「孤立した男」が、重傷を負って逃亡する暗鬱な半日を描くシークエンスの嚆矢(こうし)にシフトし、それがラストシーンにまで流れていくのだ。
「やっぱり、ジョニーには無理な仕事だったんだ」
ジョニーとは、警察の捜査網から追われる逃亡者のこと。
本作は、組織の仲間に同情されるジョニーという男の、絶望的なまでの孤立感を描く物語である。
その組織の仲間も、懸賞金目当てで信頼する女に警察に売られて、殺害されるシーンに見られるように、サスペンスフルで、冷厳なリアリズムによって貫徹される映像構成は抜きん出ていた。
以下、批評含みで、物語を追っていきたい。
2 「受容型関与」と「利益追求型関与」 ―― インボルブされた人々の行動様態
「この映画の舞台は北アイルランドだが、体制と非合法の闘争が、テーマではない。事件に巻き込まれた人々の反応を描いたものだ」
冷厳なリアリズムの筆致と、ヒューマニズムの精神を程好く均衡させた本作のテーマは、以上の冒頭のキャプションの内に集約されるものであろう。
従って本作は、IRAの活動をテーマにしたものではない。
本作の製作時の制約もあってか、ここでは政治的なメッセージを拾い上げることはできない。
ここで描かれたのは、IRAの支部組織による資金調達のための工場襲撃を指導した男が、図らずも逃亡に失敗し、殺人事件を犯したばかりか、自らも重傷を負って逃亡する暗鬱な半日である。
このようなフィルム・ノワールのリアルな手法で表現されるとき、モノクロのフィルムに光と影が交錯する、キャロル・リード監督独特の映像宇宙が冴えまくっていく。
そして、そのフィルム・ノワールの暗鬱な半日の中で、男の出口なき逃亡行程にインボルブされた人々の行動様態や、その心理の振幅を鋭利に描き出していくのだ。
私は、ジョニーという男の逃亡行程にインボルブされたか、或いは、利益目的でそこに近接した者たちを、一応類型的に大別してみた。
以下の通りである。
1 「受容型関与」
2 「利益追求型関与」
ここで重要なのは、このIRAの殺人犯に懸賞金がかけられたことで、そこに絡んで、逃亡者であるジョニーを「商品価値」として見るか否かという点である。
それが、1と2の大別の根拠である。
更に私は、逃亡者を「商品価値」として見ない1に属する人々を、「完全受容」(全人格的受容)、「倫理的受容」、「防衛的受容」と分けてみた。
当然、その逆のパターンの者が「利益追求型関与」。
まず、1の「完全受容」(全人格的受容)に該当する者は、逃亡者であるジョニーを心から愛する女性、キャスリーンの存在以外ではない。
そして、「倫理的受容」に属する象徴的人物はトム神父。
ここに、その二人の会話がある。
その経緯は、雨で濡れた路傍で倒れているジョニーを匿う浮浪者が、彼を案じる神父に金をふっかけ、売ろうとしたことだが、それを契機にした会話である。
「ジョニーを私に下さい」とキャスリーン。
「品物ではないよ」とトム神父。
「どうなさるの?」
「彼は死にかけているようだ。懺悔を聞いて、慰めてやりたい。自首を勧めるよ。仲間の所へ返したら、また、人を殺したりするだろう」
「私が遠くへ連れてって、ご迷惑をかけませんわ」
「匿う気かね?」
「はい」
「人を殺した罪を償わねばならない」
「いっそ、私の手で彼を・・・」
「それはいけないよ」
「なぜ?死刑の方が可哀想ですわ」
「君はどうなる?」
「一緒に」
「何てことを!」
「彼が捕まったら、裁判やら、処刑やら・・・とても耐えられません」
「私の力は、信仰より強いんです」と言い切って、キャスリーンは、「愛」の力で彼に寄り添い、苦悩を共有し、自らの手で殺めようとするのだ。
共に慈愛による「受容型関与」ながら、「完全受容」の女と、どこまでも「信仰」という絶対規範によって行動しようとする、「倫理的受容」の神父との対極の構図がくっきりと映し出されたシーンであった。
この説明的会話は、ラストシーンの重要な伏線になると同時に、作り手のメッセージに通じるので、最後に言及する。
(人生論的映画評論/邪魔者は殺せ('47) キャロル・リード<「受容型関与」と「利益追求型関与」 ―― インボルブされた人々の行動様態>)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2011/03/47_26.html