(人生論的映画評論/幻の光('95) 是枝裕和 <「対象喪失」―― その埋め難き固有性を吐き出して、拾い上げて>」)より抜粋

 本作の主人公、ゆみ子はその人生の中で、過去に二度、決定的な対象喪失の危機を経験し、その自我に埋め難いほどの空洞感を作り出してしまった。深甚な対象喪失によって作り出された名状し難い空洞感を埋めるには、彼女の場合、別な新しい人格との遭遇を介して、その人格的他者を愛情と依存の対象に据えることで、そこに過剰な思いを預け入れていく以外になかった。

 それは、彼女の最初の対象喪失の深甚な経験が、12歳の難しい年齢期において、未だ定まらない自我を急襲してしまったことと多いに関係するだろう。認知症の祖母の死出の旅路に向う現場に立ち会った経験を、少女は何か特別な時間の記憶として、その自我に深々と刻印してしまったのである。

 少女はそのとき、自己の存在性を、「祖母の死を食い止められなかった孫」という認知によって固めてしまったに違いない。このラベリングは思春期を経て、やがて、「祖母の死を後押しした孫」という不合理な把握の内に流れ込むことによって、その自我に不必要なまでの贖罪意識を形成させるモンスターになってしまったように思われるのだ。

 人は自分を不断に告発し、断罪し、苛め抜くことによって、「ここまで責めたから許しを与えよう」という浄化の観念に、束の間潜り込んでいく。

 それを私たちは「良心」と呼んでいるが、その本質には、「自虐のナルシズム」という感情ラインが重厚に絡んでいることを否定し難いであろう。

 この「良心」の獲得は、人間の自我形成の一定の到達点であると考えられるが、その自我が内側に刻んできた記憶が深甚なほどの負性を内包していれば、当然の如く、「良心」の機能はバランスを欠いて、過剰に自己攻撃的な内面世界を作り出してしまいかねないのである。まして、思春期の自我は過剰に流れやすいのだ。その精神が繊細であればあるほど、その自我の自己攻撃性は不合理な様態を晒すことになるであろう。

 では、そんな思春期の少女の自我が負った裂傷が、痛々しく継続力を持ってしまうとき、その自我はどのような振れ方をするのであろうか。

 思春期という名の難しい時を経て、その自我が辿り着いた軟着点は、新しい愛情と依存の対象の獲得であった。

 ゆみ子は、郁夫という全く異なる人格の内に、あろうことか、祖母の生まれ変わりの人格性を見出してしまったのである。これは映像の中で印象的に描き出されていたが、悪夢から覚めた新妻のゆみ子に、夫の郁夫が自分が妻の祖母の生まれ変わりであることに、些か当惑する思いを小さく表現し、既にその歪曲された想念に夫の諦め切った心理的文脈の所在が検証されていた。それはまさに、小此木啓吾が言うところの「転移の中の喪の仕事」であった。彼女は成人してもなお、「喪の仕事」を切に必要とする存在であったということである。

 映像は、ゆみ子の一人称小説の形式を取る原作(「幻の光宮本輝作)のように、この若い夫婦の馴れ初めを描かないが、それでも二人の関係の内に潜む、感情の微妙な落差のようなものを想像させるに充分なイメージを映し出していた。

 映画表現とは、一切をでき得る限り表現する必要性を持つ文学作品とは全く異なる、一種の総合芸術の結晶である。原作のような詳細な情報を、観る者に与える必要がない分だけ、映像表現の固有なるイメージ喚起力によって勝負できるのである。本作の表現力の卓抜さは、主人公の心象風景を極めてリアルに伝えることで、充分に検証されていたということだろう。

 ゆみ子と郁夫。

 この若い夫婦の会話は、映像の中であまりに少ない。

 しかし、最も重要な部分だけは削られていなかった。その最初の描写が、ファーストシーンの後の「転移の中の喪の仕事」を検証する場面であった。既にそこに、二人の関係が本質的に内包する微妙な落差感を映し出していたと言えるであろう。

 まさに郁夫の存在は、12歳以降埋められなかった少女の自我の空洞感を、限りなく埋めるに足る何ものかであったと言えようか。

 ゆみ子にとって郁夫の存在は、深甚な対象喪失によって作り出された負性の観念を中和するような、絶対的な何ものかでなければならなかったのである。そして若い夫はその役割を彼なりに果たすことで、若き妻の自我の、その拠って立つ安定的基盤になり得たのである。
 
 その絶対的な何かを、ゆみ子は喪失してしまったのだ。
 
 夫である郁夫の死。

 それは、若妻の自我を激甚なまでに砕いてしまう慄然とすべき何かであった。郁夫の死によって、ゆみ子の自我の安定の、その拠って立つ基盤が決定的に崩壊し去ったのである。確かに、ゆみ子には生後3ケ月の勇一という一人息子がいたが、しかし、彼女にとって勇一の存在は、郁夫という絶対的な愛情対象の喪失を十全に補填する何ものかにならなかったのである。
 
 然るに、そんなゆみ子の思いを知るはずの郁夫は、なぜ死なねばならなかったのか。

 実はこの根源的問いこそが、その後のゆみ子の時間を決定づける感情になってしまったのである。恐らく彼の死は、映像の中で語られたものの内に見出せるであろう。それは、盗んだ自転車に郁夫がペンキを塗る描写の中にあった。

 そこでの夫婦の会話。

 相撲取りの挫折の話をしたとき、郁夫はこのように語っていたのだ。
 
 「相撲取りゆうても、見込みがのうて廃業して、トラックの助手に雇われてきたんや。もう三十過ぎてるやろ。まだチョンマゲ結うたままで、それが18か9の若い運転手に
顎で使われとった。・・・あんなチョンマゲ、何で切ってしまへんねんやろなぁ・・・あのチョンマゲ見てるとなぁ、何や元気がのうなって来るんや」
 
 この郁夫の言葉の中に、ゆみ子は何かを感じた。それでも彼女は、このようにしか反応できなかった。

 「でも郁ちゃんには、ほれ、チョンマゲなんてないで。それにまだ、30まで間があるし・・・」
 
 彼女は郁夫のこの言葉に、ある種の拘りを持ったからこそ、翌日、夫を工場まで迎えに行ったのである。

 その後、二人は行きつけの喫茶店に入ったが、そこでの会話には、乳児を育てる立場にある者の闊達な能動的交叉の片鱗もなかった。郁夫はもうこの時点で、自分を誘(いざな)う「幻の光」に導かれていたのであろう。ゆみ子は、夫の内面世界の最も深い辺りまで侵入できなかったのである。その侵入を、郁夫が意識的に拒んだのかも知れない。ゆみ子は、そんな風に考えてしまったのだろう。

 だから彼女にとって、夫の死は「自殺」であって欲しくなかったはずである。

 もし夫が、「自殺」を選択したことを認めるならば、それは夫が、自分と生後間もない息子を遺棄したことを認めざるを得なくなるのだ。そのことは、ゆみ子にとって、その存在の否定に繋がる事態の認知以外の何ものでもないということになる。

 それ故、それを認めることを拒む心理の根柢には、夫の死が紛れもなく、「自殺」であることを感受してしまう負性なる思いが横臥(おうが)しているのである。恐らく、この心理の把握は極めて重要であるだろう。

 ゆみ子は、この負性なる思いを記憶の底に貼り付けた状態のまま、人生を再出発せねばならなかった。彼女にとって、このあまりに生々しい対象喪失の危機を乗り越えていくことは、あまりに艱難(かんなん)なる人生のテーマであったと言えるだろう。

 勇一の存在が、彼女の自我の決定的破局を、ギリギリのところで食い止める役割を果たしたであろうことは否定し難いが、しかし先述したように、母である女がこのとき、息子の存在を愛情対象の決定的な何ものかに据えられなかったこともまた、残念ながら否定し難いのである。

 と言うより、それ以上に、郁夫を喪失した心理的空洞感の大きさが圧倒的だったということだ。それも二度に渡って自我を襲撃した対象喪失の経験は、一つの脆弱な自我の内に精神的後遺症となって、彼女のその後の人生にへばり付いてしまうほどの粘着力を持ってしまったということである。

 だから彼女にとって、深甚な喪失感を埋めるに足る別の対象を発見し、そこに身を預けることで、自我の決定的崩壊を防ぐ必要があったと言えるだろう。それもまた、彼女の自我の生存戦略であったに違いなかったのだ。
 
 5年後、彼女は再婚した。

 それは求めるべくして求めた彼女の心の、その見えない叫びの結実でもあっただろう。思えば、彼女は心の澱みを少しでも浄化するために、郁夫と暮らした街である尼崎を捨てたと考えられる。その決断は、少しでも風景の異なる世界に身を預ける切実なる思いの必然的帰結でもあった。
 
 ともあれ、民雄との出会いは、能登という大自然との革命的な邂逅をも随伴するものであった。彼女の心は、この風土の中で確実に溶かされて、慰撫されていった。

 間違いなく、異次元の世界のような風土との邂逅は、彼女の心の澱に沈む負性の感情、即ち、不必要なまでの贖罪意識や抑鬱感情、更には、自己否定的なペシミズムといった感情を継続的に中和化させるに足る、柔和なる時間の獲得を具現化したのである。寡黙な夫は、その持ち前の包容力によって彼女を心理的に庇護し、身体的にも、そのストレートな愛情表現を出し入れすることに全く逡巡しなかった。

 そして、民雄もまた先妻を喪失した辛い過去を持っていた。先妻との関係も、睦み合う至福の時間を共有するほどの繋がりが存在していたらしい。その意味で、ゆみ子と民雄は似た者同士なのである。

 しかしそれでも、その関係の流れ方には決定的な違いがある。ゆみ子は先夫を、「自殺」という、あってはならない事態によって喪失した、心情的には、「置き去りにされた寡婦」であったということだ。

 ゆみ子にあって、民雄になかった深甚な現実。

 それは、ゆみ子の内面世界の中でのみ、「悲哀の仕事」が自己完結されていなかったということである。
 ゆみ子の尼崎行きによって、そのことが露呈される不可避なる事態が発生したとき、ゆみ子はもう、「悲哀の仕事」の自己完結なしには済まない、痛ましい自我の呻吟から逃避できなくなってしまったのである。彼女の自我の呻吟が、いよいよ収拾がつかない辺りにまで噴き上がってきてしまったのである。

 そんな妻の異変に既に気づいていた夫の民雄は、まさにそのときを逃したら、その関係の根底を崩されるかも知れないという決定的な局面に於いて、決定的に動いたのである。葬列のラインの後方に誘(いざな)われるようにして、その心を捨てようとする妻の危うい彷徨に立ち塞がって、夫は妻の究極の呻きを全人格的に受け止めた。常に心の奥深いところに封印し続けた一人の女の自我の叫びを、夫は能動的に受容したのである。

 そのとき、夫はこう言ったのだ。

 「海に誘われる、言うとった。親父、前は船に乗っとったんや。一人で海の上におったら、沖の方に綺麗な光が見えるんやと。チラチラ、チラチラ光って、俺を誘うんじゃと言うとった。誰にでもそういうこと、あるんちゃうか?」
 
 妻は必ずしも、夫のその言葉に抱擁されたのではない。自分を迎えに来て、自分の封印し続けてきた思いを受容してくれた夫の優しさの中に抱擁されたのである。

  
(人生論的映画評論/幻の光('95) 是枝裕和  <「対象喪失」―― その埋め難き固有性を吐き出して、拾い上げて>」)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2008/11/95.html