マッチ工場の少女('90) アキ・カウリスマキ <「語り」を削り取ることで露わになる、人間社会の裸形の現実>

 本作の基調音は、アンデルセン童話として有名な、「マッチ売りの少女」の悲劇をなぞるものである。

 1本のマッチも売れない少女が、「役立たず!」と叱られる父親の恐怖に慄き、幻影の中で至福のひと時に浸った末に、全てのマッチを燃え尽くして死体と化した、「マッチ売りの少女」の悲劇が本作の通奏低音になっているが故に、「THE MATCH FACTORY GIRL」という原題を持つ、「GIRL」という不相応な設定を仮構したのであろう。

 「マッチ工場の少女」もまた、その貧相な容姿と出で立ち故に、「アトラクティブ・スマイラー」(異性を惹きつけるスマイルを放つ女性)とは無縁な「GIRL」だった。

 夜のディスコに出かけても誰も相手にされず、そこで歌われる甘美な音楽の歌詞(後述)にあるように、「地に繋がれた囚人」という「剥奪された日常性」のイメージが、「GIRL」の全人格のうちに張り付いているのである。

 それは、オープニングで執拗に描かれる、ベルト・コンベアーで運ばれてくる、マッチ工場の製造ラインの工程に象徴される、物質文明社会の歯車のような存在感の剝落感であった。

 機械音のみの無機質のイメージが、冒頭のシークエンスを決定付けていたのである。

 「マッチ工場の少女」の名は、イリス。

 そのイリス本人からは、生き生きした言葉は全く拾えないのだ。

 語らないからだ。

 その代わりに、イリスの心情を代弁するのは、前述したように、ディスコで流される甘美な音楽の歌詞である。

 以下の通り。

 海原の遥か彼方には 人の知らぬ国がある
 浜辺に寄る波は暖かく 幸福の砂を愛撫する
 目もあやな花々が 一年中咲き乱れて
 心配も苦労もないし 争いも悲しみもない
 いつか私もその国へ 幸福の国へ行けたら
 その楽園から私は 決して離れまいに
 でも私は鳥ではない 地に繋がれた囚人さ

 まさに、「楽園への脱出」を夢見る「地に繋がれた囚人」こそ、「マッチ工場の少女」であるイリスの〈状況性〉だった。


(人生論的映画評論/マッチ工場の少女('90) アキ・カウリスマキ <「語り」を削り取ることで露わになる、人間社会の裸形の現実>」)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2010/12/90.html