伊豆の踊子('74) 西河克己 <「孤児根性」という寂寥感・劣等感を越える旅路 ―― 本作で削られた原作の本質性>

 本作の「伊豆の踊子」は、「アイドル映画」としては、取り敢えず不合格ではなかったと言えるだろう。

 「憧憬・熱狂・スター・清純・偶像・愛玩」等々と言った、「アイドル性」を保有する映画としての「アイドル映画」の要件を満たしていると思えるからだ。

 しかし、「純愛映画」としては余りに薄っぺらで、原作で描かれた差別に関する描写は、単に映画の「純愛性」を強調する効果を狙った素材としてしか扱われていなかった。

 それが「アイドル映画」の限界であるのは承知の上だが、それにしても、原作の至極内面的なテーマ性をここまで削り取ってしまったら、全く別の映画になってしまうという典型例がそこに垣間見えたのである。

 それもまた良い。

 言うまでもなく、映画表現が原作の忠実な映像化という枠に捕捉される必要がないからだ。

 特定的に選択した愛好者の、その特有のファン心理を浄化する小さなパワーを持ち得たという意味で、不合格ではなかったと思える類の、「アイドル映画」としての本作の中に、2か所だけ私が気に入った印象的なシーンがあるので、それを再現してみたい。

 その一。

 「アイドル映画」の範疇の内に、上手に拾い上げていたそのエピソードは、主人公の内面を上手に浄化させた描写として重要であったと言える。

 そのシーンとは、伊豆の旅をする主人公の旧制一高生の川島(一人称小説だから「私」)が、天城路で旅芸人の一座と出会い、下田まで一緒に同行することになったが、その一座の中で太鼓を背負う一人の踊子が、向かいの共同風呂に入っていて、全裸の状態で手を振るのを見て、「私」が少女の天真爛漫な振舞いに微笑む場面である。

 「子供なんだと思った。私たちを見つけた喜びで真っ裸のまま日の光の中に飛び出して来るほどに子供なんだ。頭が拭われるように澄んで、私は心に清水を感じた」(「私」のナレーション)

 このシーンは原作にもあり、ほぼ同様のナレーションで語っていたが、観る者に心地良い印象を与える出色の効果があった。

 原作の純文学的な描写は、以下の通り。

 「若桐のように足のよく伸びた白い裸身を眺めて、私は心に清水を感じ、ほうっと深い息を吐いてから、ことこと笑った。子供なんだ。私たちを見つけた喜びで真っ裸のまま日の光の中に飛び出し、爪先で精一ぱいに伸び上がるほどに子供なんだ。私は朗らかな喜びでことこと笑い続けた」(「伊豆の踊子・温泉宿 他四編」川端康成作 岩波版ほるぷ図書館文庫)

 この描写が出色なのは、踊子のかおる(原作では、「薫」)に淡い思いを抱いた「私」が、その思いを相対化することで、旅芸人の一座の和んだ空気に自然に溶け込んだという実感を、ワンシーンの挿入によって繊細に表現できていたからである。

 しかし残念ながら、本作は、この経験が「私」の「心に清水を感じ」させた、その自我が抱える寂寥感・劣等感(川端康成は、この屈折した感情を「孤児根性」という独特の表現で説明した)の風景を全く表現せず、原作の本質を改竄(かいざん)してしまっていた。

 詳細は後述するが、原作の本質は、一切が「純愛」というテーマに収斂されるものではなく、まして、本作で強調された「旅芸人への差別」への指弾などではない。

 但し、私のこの指摘は、どこまでも原作との関連でのみ有効であるに過ぎず、件のワンシーンを見る限り、「アイドル映画」のカテゴリーの中では出色の表現であったのは事実。

 それは、「アイドル映画」のカテゴリーに収斂される「健全性」において、まさに格好の表現であったに違いないのだ。

 件のワンシーンもまた、主人公の内面の率直な反応を捉えていて、原作で巧みに拾い上げていた重要なエピソードの一つだったのは間違いない。

 同時にそれは、「読む者」と「観る者」に新鮮な感動を与えた場面として、それぞれの固有の時間の中で記憶される心地良い表現であったと言えるだろう。


(人生論的映画評論/伊豆の踊子('74) 西河克己 <「孤児根性」という寂寥感・劣等感を越える旅路 ―― 本作で削られた原作の本質性>」)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2010/06/74.html