それでもボクはやっていない('07)  周防正行 <警察・検察・司法の構造的瑕疵への根源的な問題提示>

 1  警察・検察・司法の構造的瑕疵を根源的に問題提示した、秀逸な社会派の一篇



 本作は、人に言えないほどの辛い経験の混乱の中で、相当程度、曖昧となった少女の記憶が、刑事の情報誘導によって補完されることで、矛盾なく固まったと信じる主観の稜線上に、特定化された「犯罪者」を作り出し、少女の辛さを越えるほどの心理状況に捕縛された、件の「犯罪者」の内面的揺動のプロセスを通して、この国が内包する警察・検察・司法の構造的瑕疵を炙り出し、それを社会派作家として立ち上げた強烈な使命感のうちに剔抉(てっけつ)した秀逸な一篇である。

 人に言えないほどの辛い経験とは、満員電車の中での女性たちが蒙る、痴漢というリスキーな状況の中で、その被害に遭ったときの「心的外傷」経験。

 とりわけ、本作の女子中学生のような弱い立場に置かれた者が蒙る精神的被害の大きさは、それに遭遇した者でなければ分らない恐怖を随伴するものであるだろう。

 証人の苦痛を累加させる、「セカンドレイプ」という由々しき問題が横臥(おうが)するからである。

 今では、ビデオリンク方式(法廷外の場所で証人にビデオ証言)という尋問方法を採用するのが一般的。

 それほどに、痴漢被害に遭遇した自我のダメージが甚大であるということだ。

 そのことは、本作の「痴漢冤罪」の被害者となった、主人公の弁護を引き受けることに躊躇したときの、女性弁護士(但し、彼女の過剰な演技がリアリティを削っていた)の拒絶反応のシーンに象徴されるものだった。

 それは、電車に乗れなくなるという恐怖感を随伴するケースを惹起させ得る、痴漢被害を含む性暴力被害によるPTSDの問題を、まず抑えておくことの重要性であると言っていい。

 映像は、第一の被害者である女子中学生の証言シーンをきちんと描き切っていた。

 何より、そこがいい。

 パーテーション(間仕切り)によって区切られた小さなスポットで、「法律を熟知する大人」たちに囲繞された中で、宣誓させられた挙句、虚偽の証言にはペナルティーを科せられる事実を告知されるのだ。

 許容範囲を超える緊張感が、少女の自我を呪縛していたに違いない。

 その辺りを描いた点は、最も高く評価し得るものの一つである。

 そして、それと同様に重大な問題は、この国が内包する警察・検察・司法の構造的瑕疵である。

 それは、「推定無罪」という概念に象徴される刑事司法の根本原則の形骸化であると言える。

 本作の作り手は、その問題意識によって、このような厄介な社会的テーマを映像化することに踏み切ったことを、各種インタビュー等で吐露している。

 「推定無罪」という刑事司法の根本原則については、冒頭で刻まれた、「十人の真犯人を逃すとも一人の無辜(むこ)を罰するなかれ」というキャプションや、本作の中の、以下の会話の中で拾われていた。

 この「痴漢冤罪」事件を担当した一審裁判官と、刑事裁判を傍聴する司法修習生たちとの会話である。

 「刑事裁判の最大の使命は何だと思いますか?」と一審裁判官。
 「真実を見極めること」と司法修習生
 「公平であること」と女性司法修習生
 「公平らしさ」と別の司法修習生

 このとき、一審裁判官は確信的に言い切ったのである。

 「最大の使命は、無実の人を罰してはならない、ということです」

 この言葉の中に、本作の基幹テーマが集約されている。

 本作は、「最大の使命は、無実の人を罰してはならない」という刑事司法の根本原則が、「推定有罪」に振れやすくなっている、警察・検察・司法の構造的瑕疵を根源的に問題提示した、秀逸な社会派の一篇である。



 2  「人質司法」という名の状況圧の中で



 自白するまで拘留する、「人質司法」という言葉で揶揄(やゆ)されている、人権無視の捜査手法が、映像は端(はな)から描き出していく。

 さながら、ドキュメンタリー映画のように、映像は、この「人質司法」の恐怖の実態をリアルに再現していくのだ。

 地方自治体の「迷惑防止条例」(注)に抵触する、痴漢行為によって逮捕された青年の名は、金子徹平(以下、「徹平」)。

 本作の主人公である。

 以下、その徹平が、警察の留置所で、「当番弁護士」(家族などが弁護士会に依頼すれば、初回の接見を無料で実施してくれる弁護士)と接見したときの会話。

 「本当にやってないんだ」と徹平。

 この徹平の訴えに対する、「当番弁護士」の長広舌の反応は冷ややかであるが、現実的な内実を存分に含むものだった。

 以下、些か長いが、その言説を再現してみる。

 「裁判は大変なんだ。はっきり言うけど、この種の軽微な事件でも、否認していれば留置所暮らしだ。裁判にでもなれば、被害者証言になるまで、下手をすれば、3ヶ月くらい出て来れない。僕は半年拘留されていた人を知っている。当時、認めれば、罰金5万円の事件だった。その上、裁判に勝てる保証は何もない。有罪率が99.9%。1000件に1件しか無罪はない。示談で済むような痴漢事件で、正直、裁判を闘っても、良いことなんか何もない。勿論、弁護士として、やってもいない事件を認めろと勧めることはできない。でも、これが日本の現状だ。認めて示談にすれば誰にも知られず、明日か明後日にはここを出られる。いいかい。このまま否認していれば、3週間はここで取り調べを受ける。それで、起訴されれば裁判だ。無罪を争えば、1年はかかる。その上、本当に無実でも、無罪になる保証はない。今、認めて示談にすれば、それでお終いだ・・・示談するなら、すぐお金がいる。誰か身内でお金を用意してくれる人はいるかな?」

 いきなりの先制パンチだった。

 しかし、「人質司法」という言葉は疎(おろ)か、刑事司法に疎い徹平にとって、「当番弁護士」のレクチャーは、無気力な「軒弁」(軒先を借りる弁護士)の如き処世術の押し付けにしか聞こえなかったであろう。

 「・・・やってないんだ」と徹平。
 「・・・そうだね。悪かった。だけど、裁判は大変だ。多分、君には想像できないほど・・・」

 必ずしも過誤とは言えないだろう、この「当番弁護士」の「泣き寝入りの勧め」が、未知のゾーンに送り込まれた徹平の自我を呪縛し、自分の真実の訴えを聞いてもらえない状況圧の中で、「泣き寝入り」せざるを得ないような流れ方で事態が展開することで、絶望感を深めていくのである。

 それでも、「有罪」を拒絶し切った男のギリギリの闘いのうちで、自我を極限的に追い詰めて、自己像崩壊に至らなかったことの奇跡譚が、公判を通して開かれていくが、ここでは、「人質司法」の状況圧に甚振(いたぶ)られていった果てに、「虚偽自白」に追い込まれる心理について言及していこう。

 以下、「『脆弱性』―― 心の風景の深奥 或いは、『虚偽自白』の心理学」という拙稿の中から、そのような状況に置かれた被疑者の心理の振れ方について引用してみる。

 それは、「精神的孤立感」という言葉に収斂される何かである。

 取調室の澱んだ空気に囲繞されて、自分と正対する屈強な男が吐き出す言葉の連射は一貫して暴力的であり、自分以外に犯人がいないと断定する口調は、時の経過と共に激越になり、攻撃性を増強させていくばかりである。

 取り調べの時間が間断なく継続されていく感覚すら鈍麻し、無実を訴える自分の弱々しいアピールは絶え絶えになり、全く先の見えない暴力的な展開の恐怖のみが記憶の表層に張り付き、自分の心と体を隙間なく包括する異様な空間を仕切ってしまっているのだ。

 こんなリスキーな内的状況が、何時間続いたであろうか。

 夜になっても食欲が破壊され、全人格的に疲弊し切っている自我が震えている。

 そこに形成されたブルーのスポットは、まさに外界から遮断された、出口の見えない「箱庭」だった。

 その「箱庭」の中に成立した関係性の本質は、「権力関係」と呼ぶ以外にない爛(ただ)れ切った様態である。

 捜査員という名の、筋骨隆々の男たちとの間で形成された「権力関係」が、時間の虚しい経過と共に、いよいよ露わな暴力性を剥き出しにしてきたとき、寄る辺なき自我は少しずつ、卑小な存在性の脆弱さの被膜を剥(は)いでいくのだ。

 心身ともに激しい疲労感が突き上げてきて、もう絶え絶えの自我は千切れかかっている。

 「早く楽になりたい」―― そんな思いが意識の領野を隅々まで支配してきて、何か得体の知れない異界の時間に誘(いざな)われていくようだった。

 23日間に及ぶ、このような拘留状態下の状況圧の中に、本作の主人公である青年の自我は捕捉されていたのである。


(注)因みに、東京都迷惑防止条例では、8条1項において、「6月以下の懲役又は50万円以下の罰金に処する」という条文になっている。

 
(人生論的映画評論/それでもボクはやっていない('07)  周防正行 <警察・検察・司法の構造的瑕疵への根源的な問題提示>」)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2011/03/07.html