「血液検査の結果が出たわ。後でお話を」
全ては、この一言から始まった。
フィラデルフィアで有能な弁護士として鳴らしたアンドリュー・ベケットは、突然、エイズの発症を宣告された。本人は既に、自分の体の異変に気づいていた。額や首筋にはカボジ肉腫(注1)の兆候が現われていて、最近の体重減少や体調不良との因果関係でエイズを疑っていたが故に、既に検査を受けていたのである。
一方、ベケットは法律事務所では実績を積み重ねて、上級弁護士への昇進を果たしていて、まさに順風満帆なエリート街道を歩むその一つの頂点に近づきつつあったのである。企業訴訟を専門とする事務所によって、彼に任された仕事は著作権絡みの重要な案件であり、彼は自分の健康の不具合を隠しつつ、日々の職務に就いていたのだ。
(注1) 「カポジ肉腫(KS)とは、口腔、鼻、肛門を覆う皮膚や粘膜の下にある組織で悪性のがん細胞が見つかる疾患です。カポジ肉腫(KS)では、皮膚や粘膜上に紅斑または紫斑の病変が現れ、やがて肺、肝臓、腸管など身体の他の器官に拡がります。1980年代初期まではカポジ肉腫は極めて稀な疾患で、高齢者、臓器移植を行った患者さん、アフリカ人男性などで主に見られました。1980年代初期における後天性免疫不全症候群(AIDS)の流行に伴い、医師たちはアフリカや男性同性愛者のAIDS患者の中に、より多くのカポジ肉腫の症例がみられることに気付きました。通常、これらの患者さんでは、カポジ肉腫がより速く拡がります」(がん情報サイト:「カボジ肉腫とは」より)
一ヵ月後、野球帽を被った坊主頭のベケットは、一人の男の事務所を訪ねた。
その男の名はジョー・ミラー。その職業は弁護士。
それもかつて、ライバル弁護士として法廷で対決した男。その男を訪ねたのだ。訪問を受けたミラーは、ベケットのやつれた顔を見るなり、唐突に尋ねた。
「その顔は?」
「エイズだ」とベケット。
思わず握手した右手を咄嗟に引っ込めたミラーは、ベケットの一挙手一投足が気になるのか、彼の話を集中して聞けなかった。それでもベケットは、単刀直入に用件を切り出した。
「私はウィラーの事務所をクビになった。彼の事務所を不当解雇で訴えたい」
「あの名門の法律事務所を相手に?」
「それで弁護を頼みたい」
「話してくれ」
「私が重要な訴状を置き忘れたと言う。だが違う・・・」
「何人の弁護に相談を?」
「9人」
「続きを・・・」
「その日の前夜、私は訴状を作り、机の上に置いた。翌日、それが消えていた。訴状も、コンピューターのファイルもなぜか消えていた。不思議にもギリギリに訴状が見つかり、出訴期限には間に合った。だが翌日、私は事務所の上層部に呼び出された・・・」
そのときの、法律事務所の様子が回想されていく。
「最近の君はおかしい。ボヤッとしたり、物忘れしたり」と社長。
「態度にも問題があると・・・」と重役。
「誰が?」とベケット。
「私だ」と社長。
「まさか・・・クビだと?」
「こう考えればいい。ここでは君の未来に可能性はない。将来が期待できない以上、ここにいても無駄だ。では・・・追い出す訳ではないが、委員会があるので・・・」
「待ってくれ。どう考えてもこんなの不合理だ。理屈に合わない」
「その態度に問題があるんだ」と重役。
結局、表面的な解雇の理由は、「職務態度に問題あり」というものだった。そこまで話を聞いたミラーは、病気のことを事務所に伝えていたかどうかについて確認する。ノーと答えたベケットに、ミラーは更に確認する。
「伝染性の病気を雇用主に伝える義務は?」
「それは関係ない。私は雇われてから辞めるまで、顧客に素晴らしい働きをしてきた。事務所に入れば、今でもだ」
「エイズでは辞めさせられないので、君を無能に見せようと訴状を隠したと?」
「そうだ。嵌められた」
「信じないね」
「とても残念だ」
「訴訟は無理だ」
「訴訟は起こす。君が嫌なら・・・」
「ああ、嫌だね」
「お邪魔をした」
事務所を出ようとしたベケットに、ミラーは心にもない同情を添えた。
「病気の件はお気の毒だ・・・」
事務所を出たベケットがそこに残した葉巻が気になって、ミラーは知り合いのドクターのもとに予約を入れ、自分の診察がてら、エイズという病気について聞きに行った。感染を疑っているのである。
「HIVウィルスは、体液からしか感染しない。血液、精液、膣分泌液だ」
「でも知らないことが日々、発見されるでしょ。今日安全だと聞いて、家に帰って子供を抱いて、半年後に間違ってた、洋服からでも感染するとか?」
こんな自分の問いが不毛だと知ったミラーは、その夜、女児を産んで間もない妻に皮肉を言われた。
「ゲイが嫌いなんでしょ?」
「別に・・・」
「同性愛の知人がいる?」
「君は?」
「沢山」
「誰だ?」
夫のその問いに対して、妻は知人の名を次々に挙げたが、その中に叔母の名が入っていることに、ミラーは驚いた。
「認めるよ。僕は偏見がある。ホモは嫌いだ・・・僕は自分より逞しい奴とベッドに入る気はないね。古い男で結構」
はっきりそう言い切った夫に、「頭は原始人ね」と揶揄されて、ミラーは更に感情を込めて反論する。
「もし君の所に、手も触れられたくない男が来たとして、弁護を引き受けるか?」
「断るわね」
「そういうことだ」
このシビアな会話の軟着点を求めるようにして、夫婦は睦みのうちに流れ込んでいった。
2週間後、市の図書館で、ベケットは資料検索のための学習に余念がなかった。そこに、一人の図書館員が資料を手にやって来た。
「失礼、資料です。HIVの差別に関する項目がありました」
静寂した空間の中に発せられた、含みを持つその声に小さな緊張が走った。周囲の視線がベケットに集中したのである。その視線の中に、偶然、図書館に居合わせたミラーもいた。
「ありがとう。どうもありがとう」とベケット。
彼の反応は率直だった。
「個室が空いていますが・・・」と図書館員。
彼の反応は曲線的である。
それを聞き流したベケットは、「ここでいいよ」と一言。
しかし図書館員の表現は、次の一言によって、ダイレクトな尖りを見せてしまった。
「個室のほうが、気楽では?」
この言葉に一瞬、ベケットの表情は変色した。ミラーの表情にも緊張が走っている。
「いや。そちらが安心かい?」
ベケットは皮肉を込めて突き返した。その緊張した空気を払ったのは、ミラーの介入だった。彼はベケットに挨拶を交わし、驚くベケットもそれに返礼した。
「お好きなように」
図書館員は、その一言を残して立ち去ったのである。
全ては、この一言から始まった。
フィラデルフィアで有能な弁護士として鳴らしたアンドリュー・ベケットは、突然、エイズの発症を宣告された。本人は既に、自分の体の異変に気づいていた。額や首筋にはカボジ肉腫(注1)の兆候が現われていて、最近の体重減少や体調不良との因果関係でエイズを疑っていたが故に、既に検査を受けていたのである。
一方、ベケットは法律事務所では実績を積み重ねて、上級弁護士への昇進を果たしていて、まさに順風満帆なエリート街道を歩むその一つの頂点に近づきつつあったのである。企業訴訟を専門とする事務所によって、彼に任された仕事は著作権絡みの重要な案件であり、彼は自分の健康の不具合を隠しつつ、日々の職務に就いていたのだ。
(注1) 「カポジ肉腫(KS)とは、口腔、鼻、肛門を覆う皮膚や粘膜の下にある組織で悪性のがん細胞が見つかる疾患です。カポジ肉腫(KS)では、皮膚や粘膜上に紅斑または紫斑の病変が現れ、やがて肺、肝臓、腸管など身体の他の器官に拡がります。1980年代初期まではカポジ肉腫は極めて稀な疾患で、高齢者、臓器移植を行った患者さん、アフリカ人男性などで主に見られました。1980年代初期における後天性免疫不全症候群(AIDS)の流行に伴い、医師たちはアフリカや男性同性愛者のAIDS患者の中に、より多くのカポジ肉腫の症例がみられることに気付きました。通常、これらの患者さんでは、カポジ肉腫がより速く拡がります」(がん情報サイト:「カボジ肉腫とは」より)
一ヵ月後、野球帽を被った坊主頭のベケットは、一人の男の事務所を訪ねた。
その男の名はジョー・ミラー。その職業は弁護士。
それもかつて、ライバル弁護士として法廷で対決した男。その男を訪ねたのだ。訪問を受けたミラーは、ベケットのやつれた顔を見るなり、唐突に尋ねた。
「その顔は?」
「エイズだ」とベケット。
思わず握手した右手を咄嗟に引っ込めたミラーは、ベケットの一挙手一投足が気になるのか、彼の話を集中して聞けなかった。それでもベケットは、単刀直入に用件を切り出した。
「私はウィラーの事務所をクビになった。彼の事務所を不当解雇で訴えたい」
「あの名門の法律事務所を相手に?」
「それで弁護を頼みたい」
「話してくれ」
「私が重要な訴状を置き忘れたと言う。だが違う・・・」
「何人の弁護に相談を?」
「9人」
「続きを・・・」
「その日の前夜、私は訴状を作り、机の上に置いた。翌日、それが消えていた。訴状も、コンピューターのファイルもなぜか消えていた。不思議にもギリギリに訴状が見つかり、出訴期限には間に合った。だが翌日、私は事務所の上層部に呼び出された・・・」
そのときの、法律事務所の様子が回想されていく。
「最近の君はおかしい。ボヤッとしたり、物忘れしたり」と社長。
「態度にも問題があると・・・」と重役。
「誰が?」とベケット。
「私だ」と社長。
「まさか・・・クビだと?」
「こう考えればいい。ここでは君の未来に可能性はない。将来が期待できない以上、ここにいても無駄だ。では・・・追い出す訳ではないが、委員会があるので・・・」
「待ってくれ。どう考えてもこんなの不合理だ。理屈に合わない」
「その態度に問題があるんだ」と重役。
結局、表面的な解雇の理由は、「職務態度に問題あり」というものだった。そこまで話を聞いたミラーは、病気のことを事務所に伝えていたかどうかについて確認する。ノーと答えたベケットに、ミラーは更に確認する。
「伝染性の病気を雇用主に伝える義務は?」
「それは関係ない。私は雇われてから辞めるまで、顧客に素晴らしい働きをしてきた。事務所に入れば、今でもだ」
「エイズでは辞めさせられないので、君を無能に見せようと訴状を隠したと?」
「そうだ。嵌められた」
「信じないね」
「とても残念だ」
「訴訟は無理だ」
「訴訟は起こす。君が嫌なら・・・」
「ああ、嫌だね」
「お邪魔をした」
事務所を出ようとしたベケットに、ミラーは心にもない同情を添えた。
「病気の件はお気の毒だ・・・」
事務所を出たベケットがそこに残した葉巻が気になって、ミラーは知り合いのドクターのもとに予約を入れ、自分の診察がてら、エイズという病気について聞きに行った。感染を疑っているのである。
「HIVウィルスは、体液からしか感染しない。血液、精液、膣分泌液だ」
「でも知らないことが日々、発見されるでしょ。今日安全だと聞いて、家に帰って子供を抱いて、半年後に間違ってた、洋服からでも感染するとか?」
こんな自分の問いが不毛だと知ったミラーは、その夜、女児を産んで間もない妻に皮肉を言われた。
「ゲイが嫌いなんでしょ?」
「別に・・・」
「同性愛の知人がいる?」
「君は?」
「沢山」
「誰だ?」
夫のその問いに対して、妻は知人の名を次々に挙げたが、その中に叔母の名が入っていることに、ミラーは驚いた。
「認めるよ。僕は偏見がある。ホモは嫌いだ・・・僕は自分より逞しい奴とベッドに入る気はないね。古い男で結構」
はっきりそう言い切った夫に、「頭は原始人ね」と揶揄されて、ミラーは更に感情を込めて反論する。
「もし君の所に、手も触れられたくない男が来たとして、弁護を引き受けるか?」
「断るわね」
「そういうことだ」
このシビアな会話の軟着点を求めるようにして、夫婦は睦みのうちに流れ込んでいった。
2週間後、市の図書館で、ベケットは資料検索のための学習に余念がなかった。そこに、一人の図書館員が資料を手にやって来た。
「失礼、資料です。HIVの差別に関する項目がありました」
静寂した空間の中に発せられた、含みを持つその声に小さな緊張が走った。周囲の視線がベケットに集中したのである。その視線の中に、偶然、図書館に居合わせたミラーもいた。
「ありがとう。どうもありがとう」とベケット。
彼の反応は率直だった。
「個室が空いていますが・・・」と図書館員。
彼の反応は曲線的である。
それを聞き流したベケットは、「ここでいいよ」と一言。
しかし図書館員の表現は、次の一言によって、ダイレクトな尖りを見せてしまった。
「個室のほうが、気楽では?」
この言葉に一瞬、ベケットの表情は変色した。ミラーの表情にも緊張が走っている。
「いや。そちらが安心かい?」
ベケットは皮肉を込めて突き返した。その緊張した空気を払ったのは、ミラーの介入だった。彼はベケットに挨拶を交わし、驚くベケットもそれに返礼した。
「お好きなように」
図書館員は、その一言を残して立ち去ったのである。
(人生論的映画評論/フィラデルフィア('93) ジョナサン・デミ <偏見を削っていく条件についての映像的考察> )より抜粋http://zilge.blogspot.com/2008/12/93.html