稲妻('53) 成瀬巳喜男  <離れて知る母の思い>

 映画の舞台は東京下町、葛飾区金町。

 それぞれ父親が違う子供たち。その母親おせいが浦辺粂子

 彼女は彼女なりに一生懸命夫に尽くしてきて、厳しい生活を切り盛りしてきた。四人の子供たちへの愛情も特段変わらず、彼女なりに懸命に育ててきた。それにも拘らず、多くの家庭がそうであると想定される以上に、四人の子供たちの性格は全く違っていた。

 復員兵で失業中の長男は意志薄弱で、自らの困難を打開しようとする気迫も情熱も何もない。周囲に依存して甘える弱さは、明らかに母の溺愛が作り出したもの。欲深い長女は生活力のない夫に見切りをつけて、商魂たくましい女好きの男に走っていく。他の三人とは違うこの長女の性格の悪さは、多分、彼女の父親のDNAに起因する。

 夫に浮気された挙句、突然死別された次女は嘆き哀しむ日々を送るだけ。

 泣き伏すだけで、一向に哀しみから立ち直れないのだ。浮気相手の女からは夫に掛けた僅かな保険金の一部をふんだくられて、三女にたしなめられる始末。こんな気弱な次女が、残った保険金と長女の愛人からの援助で、何とか喫茶店を開店する。

 しかし、少しでも自立しようとする次女の決意は薄弱で、結局は愛人に甘い汁を吸われるだけ。その愛人を巡って長女と確執が生まれ、生来のストレスコーピング(ストレスへの対処行動)の脆弱さ故に、リスキーな状況に耐え切れず、とうとう逃げ出してしまうのだ。次女の父親は気弱な小市民だったに違いない。

 最も自立心の強い三女、清子(きよこ)の眼には、そんな家庭環境が修羅の世界に見えてしまう。遂に、彼女は意を決して家を出る。そこで得た新しい環境は、彼女が住んでいた修羅の世界とは無縁で、明るく健康的な色彩に満ちていた。親切で、趣味を大事にする下宿の大家さん。隣りには、音楽で繋がる前向きな兄妹が住んでいた。交流は心地良く、心が洗浄されるようだった。

 そんな三女の世界に、血相を変えた母が訪ねて来た。

 次女の家出に動揺する母を見て、彼女が断ちたかった世界からの柵(しがらみ)を実感する。堰が切れたように、娘の清子の口から言ってはならない言葉が吐き出された。父親が違う四人の子を産んだ母を、一方的に責めたのだ。

 「私なんか産まれてくるんじゃなかった」

 娘から自分の過去の淫乱振りを難詰され、母は激しく動揺し、口喧嘩になる。涙を溜めた娘からの攻撃的な吐露は、一瞬の間をおいて、母の涙を誘引した。この蟠(わだかま)った母娘の宿命的とも思える衝突と、その衝突の向こうに待機するに違いない和解への願いが物語を括っていくが、しかしまだ母の涙は乾いていなかった。

 清子にしてみれば、母を傷つけたくはないが、過去を封印して生きるのは辛すぎる。どうしても一回は吐き出さなくてはならない心の澱(おり)がある。母娘にとって、衝突は不可避だったのだ。それを避けたら、より一層プールされてしまう澱(よど)みというものもある。衝突によって一気に突破を目指す、「恐怖突入」という名の荒療治もまた、しばしば不可避なのである。

 含みは必ずタブーの領域に入ってしまうから、関係を突破によってクリアにする方法論は依然として有効なのである。だから清子は吐き出したとは言わないが、もうそれを止められないほど、清子の内側に何かが噴き上がってきたことは確かだったのだ。

 吐き出したら楽になった。

 清子はこの気分を早く手に入れたかったのである。それを吐き出された母もまた辛いだろうが、自分はこの辛さを、これまでずっと抱え込んできたのだ。

 そんな思いを想像させる清子の決定的な一撃に、母のおせいは狼狽(うろた)えるばかり。甘えた子供が放つ常套句に対して、母親はあまりに無力である。だから号泣する以外にない。その母親の涙に娘の攻撃性は萎える。普通の情緒的関係で繋がっている限り、母の涙は空気を変える力を持つのだ。

 胸の閊(つか)えをおろして楽になった清子は、今や母の涙を止めなくてはならなかった。

 関係が受けた裂傷を、償い切れない程の涙で潤すことができてもできなくても、辛さ故に滴った涙をそこに置き去りにする残酷は、普通、私たちの世界では見られない。母の涙を止められる修復力が、この母娘には充分に残っている。責める者も、責められる者も、良きにつけ悪しきにつけ、関係が抱え込んでいる甘えに寄りかかっていることもまた事実であった。

 タブーを越えても、吐き出したいだけのモチーフが崩れれば、たいてい予定調和の世界に入っていく。情愛をベースに結ばれた関係とはそういうものだ。

 「お母ちゃん、私の眼きれい?」と娘。
 「知らないよ」と母。まだ不貞腐れている。

 清子は母の心に寄り添ってあげたくなっている。

 「母ちゃん、浴衣一枚買ってあげるわ。売れ残りの安いのを」

 母の反応を今すぐ期待するかのような、児戯含みの清子のストロークには、激しくクロスした後の母娘の定番的な収拾のスキルが反映されている。母の修復力が意外に早いのを、娘の清子は知悉しているのだ。

 「嫌だよ、売れ残りなんて」

 おせいがそう反応したとき、母娘はもう近接しているのである。

 母の甘えと娘の甘えが程好く混淆されていて、和解に向かう関係の経験的なスキルが、実に良く混淆された甘えを存分に生かしきっている。

 衝突は必ず、和解という予定調和に流れ込まねばならない。だから、衝突にも技術論が必要なのである。衝突の技術は、和解の不自然さを解消するのである。

 おせいと清子の、一見不釣合いな母娘のゲームもまた、経験的な技術の勝利であった。



(人生論的映画評論/稲妻('53) 成瀬巳喜男   <離れて知る母の思い>)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2008/11/53.html