シン・レッド・ライン('98)  テレンス・マリック <「一本の細く赤い線」――状況が曝け出した人間の孤独性についての哲学的考察>

 1   「人間は眼を瞑り、必死で自分を守る。それしかできん・・・・」



 ―― 「シン・レッド・ライン」という、あらゆる意味で鮮烈で根源的な映像の背景となった、「ガダルカナル戦」についての言及は後述するとして、まず映像の中に入っていこう。


 「戦場」という、不安と恐怖に充ちた未知のゾーンに放り込まれた若き兵士たち。

 若者たちにとって、玉砕覚悟で突撃する日本兵との肉弾戦の経験は、一応の大義名分で武装した彼らの自我を一瞬にして凍らせてしまったに違いない。そして、そこで運良く命を拾ったばかりに、恐らく、繊細な気質を持つ者の神経の暴走がそこから始まってしまったのだ。

 彼らは「シン・レッド・ライン」、即ち、正気と狂気を分ける境界線(後述)を踏み越えて、そこで過剰に反応してしまったのである。

 「大自然の中での戦争?なぜ、自然が自らと戦う?陸と海は和を保ってる。自然には復讐の力が?それも、一つではなく二つ?」

 南太平洋の悠久なる大自然

 大ワニが川を泳ぎ、原色の彩(いろど)りを輝かせる鳥が囀(さえず)り、眼前に広がる海で、島の人々が悠々と泳いでいる。そんなパラダイスのような原始の地で、身も心も自然に委ねるようにして、米軍の脱走兵たちが生活している。その一人の若き兵士は、大自然を相手に問いかけていた。

 人間もまた神が造った自然の一つでしかないのに、その大自然をステージにして殺戮を繰り返している。そこで殺されるのは、歴史のゲームのような戦争に翻弄される人間のみならず、人間が放った圧倒的暴力のステージにされた、大いなる自然それ自身でもあるのか。

 こんな哲学的な問いかけから始まる、奇異なる映像の印象的なモノローグ。

 問いかけているのは、主役のいない映画の中で、主役に近い役割を与えられているウィット二等兵
 そんな彼の、繊細なモノローグは続く。

 死んだ母を思い出して、遠く隔たった島の片隅で若者は瞑想するのだ。

 「・・・・母さんは死ぬとき、小さく縮んで顔は灰色だった。“死が怖い?”と聞いたら、首を横に振った。僕は母さんの死相が怖かった。神に召されることのどこが美しく、幸せなのか。“生命の不滅”って言うが、一体どこに?・・・・死ぬときの気持ちって?“この呼吸が最後だ”と自分で知る気持ちは?母さんのように死を迎えたい。母さんのように・・・穏やかに。生命の不滅は、きっとそこに隠されている」

 まもなく、原住民の子供と戯れるウィット二等兵の前に、彼を捕捉するためのアメリカ哨戒船が現われた。
捕捉された彼は、ウェルシュ曹長の計らいで看護兵に取り立てられ、彼の所属していた陸軍C中隊に配属されたのである。

 C中隊を率いるのは、一見、パットン将軍(注2)を思わせる叩き上げのトール中佐。今や、日本軍が占領する空前絶後ガダルカナル戦に向けて、兵士たちは至高なる大義名分の下、日本軍が建設予定の飛行場を阻止するために、海兵隊に続いて陸軍の部隊が動き出したのだ。


(注2)第二次世界大戦で、その名を轟かせた米国の将軍。アフリカ戦線で、ドイツのロンメル機甲兵団を粉砕、その後戦死に名高い「バルジの戦い」でも戦功を上げる。特徴的なその勇猛な人柄は、戦争神経症の兵士を殴ったというエピソードが、彼の伝記映画「パットン大戦車軍団」(フランクリン・シャフナー監督)の中に紹介されている。


 軍法会議という難から解き放ったウェルシュ曹長と、逃亡兵としてのペナルティを免れたウィットとの会話。

 「この世の中、男の価値なんか無だ。そして世の中は一つしかない」
 「俺は見ましたよ。別の世界を・・・時々思うんです。あれは幻だったかと」
 「俺には見えない世界だ・・・俺たちの世界は自滅にまっしぐら。人間は眼を瞑り、必死で自分を守る。それしかできん・・・・」

 二人にどれほどの価値観や戦争観の違いがあるか、この会話だけでは不分明だが、まもなくその後の二人の態度を見ていく限り、ウェルシュはニヒルで実存的な観念によって、そしてウィットは、退路を断たれた者の決死の観念によって、約束されない未来を切り抜けようとしていくことが判然としていく。

 トール中佐のモノローグ。

 「ここまで這い上がった。自尊心を呑み込んで、将軍たちにゴマスリ。奴らのため、家族のため、国のため・・・・地面に撒いた水だった。愛を与えてやることもなく、もう遅すぎる。俺は死ぬ。木のようにゆっくりと・・・・シーザーになる気持ち・・・恐怖も増す」

 このC中隊の指揮者は、眼前に迫った戦場に全てを賭けている。しかしその心中は、決して穏やかではない。この後、過剰なまでに露呈する好戦的な態度を見る限り、パットン将軍にしか見えないこんな男にも、苛烈な状況を突き抜けていかねばならない恐怖の壁があったのだ。
 
 船内での、若き兵士の吐露。

 「俺は怖いんです。子供の頃、継父によくブロックで殴られた。それが怖くて逃げ隠れ、よく鳥小屋で寝ました。ここはもっと怖い。毎分・・・いや毎秒を数えて生きている。もうじき上陸が始まる。浜辺で敵機にやられちまいます。この船は海に浮かぶ墓場だ」

 それを耳にした曹長は、相手の名を訊ねる。名をトレインと答えた若者は、上官に理屈っぽく反応した。

 「永遠にあるのは、死と主イエス。戦争が俺の最後じゃない。あなたも同じです」

 狭く閉鎖系の艦内での空間を共有するある若者は、恐怖で身を小さくし、またある者は強がって見せるが、ポーズだけ。そして、小隊を指揮する弁護士出身のスタロス大尉は、冷静に船内を見回っていた。

 ベル二等兵と名乗る男は、戦前は将校だったが、妻と一緒に生活するために除隊し、再び兵卒として太平洋戦線に招集された。彼には故郷で待つ妻のことしか頭にない。映像で何度も紹介される妻との穏やかな生活の回想シーンが、死骸で埋め尽くされる凄惨な戦場へのアンチ・イメージとして異彩を放っていた。


(人生論的映画評論/シン・レッド・ライン('98)  テレンス・マリック   <「一本の細く赤い線」――状況が曝け出した人間の孤独性についての哲学的考察>)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2008/11/98_10.html