十二人の怒れる男('57) シドニー・ルメット <「特定化された非日常の空間」として形成された【状況性】>

 序  プロット展開の絶妙な映像構築



 「17歳の少年が父親殺しで起訴された。死刑は決定的と見えたが、12人の陪審員のうち8番の男だけが無罪を主張する。彼は有罪の根拠がいかに偏見と先入観に満ちているかを説いていく。暑く狭い陪審員室での息苦しくなるような激論、怒り。互いに名も知らぬ男たちは、虚飾をはぎ取られ、ぶつかり合う。全編、陪審員室だけの密室劇にもかかわらず、一分のスキもない緊迫感をもって描き切る人間ドラマの秀作」(ワーナーホームビデオ解説より)

 これは、本作のビデオのジャケットに書かれた解説文。

 映画の内容も紹介されているから、以下、事件についての詳細な言及を避け、本質的なことだけを書いていく。

 確かに本作は、室内劇という特定的状況の中で展開する人間ドラマの白眉で、シナリオにも全く無駄がなく、ほぼ完璧過ぎる映画であると言っていい。

 少なくとも、そのような評価が定着した一級の名画だが、私にはその「完璧性」を保証したのが、6日間の法廷を費やした一つの殺人事件を評決する密室的空間内において、12人の陪審員が丁々発止と渡り合う限定的な描写の中で、緊迫感をもって事件の本質に肉薄していく<状況>を作り出した、そのプロット展開の絶妙な映像構築の超弩級の腕力にあると考えているので、その辺りの問題意識によって、本稿を進めていきたい。

 
 
(人生論的映画評論/十二人の怒れる男('57) シドニー・ルメット <「特定化された非日常の空間」として形成された【状況性】> )より抜粋http://zilge.blogspot.jp/2009/12/57.html