たそがれ清兵衛(‘02)  山田洋次 <「清貧」と呼ぶに相応しい清兵衛像の、肩ひじ張らない恬淡とした生き方>

イメージ 11  屋上屋を架すようなナレーション挿入の、「過剰なまでの分り易い物語」への振れ方の悪弊



 「観る者との問題意識の共有」=啓蒙意識への強い拘泥。

いつからか、山田洋次監督には、これが、そこだけは外せない地下水脈のように、いよいよ累加されてきているように思われる。

この拘泥感の強さが、時として、「過剰なまでの分り易い物語」を生んでいく。

致命的な瑕疵の見られない本作においても、この「過剰なまでの分り易い物語」が堂々と侵入してしまっていた。

端的に言えば、時代を跨(また)いで成長した主人公の次女以登による、間断なく、途切れることがないナレーションがそれである。

何より看過し難いのは、明治維新を経て、大人になった以登が、父の回想を閉じていくラストシーン。

以下、そのナレーションを再現する。

 「かつて、明治の御世になって、父の同僚や上司だった人たちの中には、出世して、偉いお役人になった方々が沢山いて、そんな人たちが、父のことを”たそがれ清兵衛”は不運な男だったとおっしゃるのをよく聞きましたが、私はそんな風には思いません。父は出世などを望むような人ではなく、自分のことを不運などとは思っていなかったはずです。私たち娘を愛し、美しい朋江さんに愛され、充足した思いで短い人生を過ごしたに違いありません。そんな父のことを、私は誇りに思っております」
 
このナレーションを耳にして、正直、全身の力が抜けてしまった。

 殆ど稀有な存在でしかない主人公の生き方を、「本来的」な「日本の心・武士の心」、「日本人本来の男らしさ」(レビューより)と幻想して、感銘を深くする人たちとは無縁に、私の場合、この「全身説教居士」にまで上り詰めてしまった作り手が挿入した、このラストナレーションを聞かされて、「観る者との問題意識の共有」への強い拘泥=啓蒙意識全開のスクリプトに愕然としたのは事実である。

「このような父がいたからこそ、今の自分の幸福がある」という、身内自慢のメッセージと化してしまったラストナレーションの挿入だけは、大の説教嫌いで、説明過剰な描写を嫌う私にとって、断じて看過し難かったからである。

これを削ることによって軟着し得たラストカットが包含する、えも言われぬ、「言外の情趣」の価値を高めたことが容易に想像し得るので、至極残念であると悔やまれてならないのだ。

敢えて傲慢な言い方をすれば、この映画は、清兵衛の帰還で終わるべきだったのだ。
 
清兵衛の帰還によって、時代を跨いだこの家族の様態のイメージは、観る者が容易に想像できるではないか。

そうであるなら、大人になった以登のナレーション自体、一切不要となるだろう。

それが正解なのである。

なぜ、こんな屋上屋を架すようなナレーションを挿入したのか。

そこでは、恐らく作り手のパーソナリティに根差すだろう、「観る者との問題意識の共有」=啓蒙意識への拘泥感をベースにした、嗜好・性癖が露呈されていたと言わざるを得ないのである。
 
 
(人生論的映画評論・続/たそがれ清兵衛(‘02)  山田洋次 <「清貧」と呼ぶに相応しい清兵衛像の、肩ひじ張らない恬淡とした生き方>)より抜粋http://zilgz.blogspot.jp/2013/02/02.html