マイ・レフトフット('89) ジム・シェリダン <直球勝負の自己投入をする男 ―― 自死への際どい「前線」での「勝負」の中で>

  「生まれながらの重度の脳性小児麻痺により、左足が少し動かせるだけで、後は植物人間同様の生活を余儀なくされている不遇の主人公が、その絶え間ざる努力の末、やがて言語能力を取り戻し、わずかに動く左足を使い絵を描けるようになるまで成長していく姿を描く」

 以上の一文は、「Yahoo!作品情報」による本作の骨子。

 そんな主人公の生き方を要約すると、以下の文脈で説明できるだろう。

 健常者が普通に呼吸する日常世界に、自分の思いを「対等感覚」によって投入していくことで、そこに際どい「前線」が仮構されるとき、健常者に対しても、その思いを認知させることを普通に求める限り、「前線」での「勝負」に負ける事態、即ち、自分の欲求が具現しない現実に、「障害者だから負けた」という「退路」に逃げ、それを理由にできないことを意味する。

 だから、その自己投入には相当の覚悟が求められる。

 それは、自死への際どい「前線」での「勝負」であるからだ。

 従って、本作の主人公は孤独を認知しても、「障害者だから負けた」という「退路」に逃げなかったのだ。

 限りなく自己努力を累加させていって、handicap(ハンディキャップ=社会的不利益)を突き抜けようとした男の生き方こそ、本作の主人公の強靭な自我を支え切ったのである。

 「前線」での「勝負」を挑んだ男の名は、クリスティ。

 実在のアイルランド人である。

 同時に、「Yahoo!作品情報」で紹介されているように、重度の脳性小児麻痺である。

 そんなクリスティの、「勝負」を象徴するエピソードが、本作の中に拾われていた。

 脳性小児麻痺の専門医アイリーンに恋慕するクリスティが、彼女との間に「前線」を仮構したシークエンスである。

 「“こうして反省という奴が、いつも人を臆病にする。決意の快活さが憂鬱の青白さで塗り潰される。命を賭した大事業も流れに乗り損ない、行動のきっかけを失うのが”」

 クリスティは散文詩に仮託して、自分の思いを表現した。

 「ハムレットはどう?」とアイリーン。
 「行動のできない身障者だ」とクリスティ。
 「行動したわ」
 「遅過ぎた。先生、僕は先生が大好きだ」
 「私もよ」
 「そうじゃない・・・いいんだ」

 ここでは、相手に届かない自分の思いを表現しただけで終わった。

 そして、クリスティの絵の個展の日。

 遂に彼は、「真っ向勝負」に打って出た。

 「愛してる。心から愛してるんだ」

 予想だにしないクリスティの告白に、言葉を失うアイリーン。

 彼女もまた、意を決して、婚約の事実をクリスティに打ち明けたのである。

 そのショックでワインを呷り、クリスティはアイリーンに毒づいた。

 酒好きで、乱暴な物言いは父親譲りなのだ。

 「母親気取りは止めてくれ。なぜ、僕を愛してると?」
 「愛しているからよ」
 「つまり、心の愛ってやつか。僕は今まで、心でしか愛されたことがない。そんなもの糞くらえだ!心も体も全てでなければ、愛じゃない!」

 叫ぶクリスティ。

 場を白けさせながらも、彼の毒づきは終わらない。

 「君は、性の欲求をどうする?君はいい人だ。体の欲求はどうしてる?」

 クリスティの直球勝負の発問に、アイリーンが反応できる訳がない。

 このアイリーンの無言の答えに激怒し、頭をテーブルに打ちつけるクリスティ。

 全てを失ったと観念したクリスティは、まもなく、失意から自殺を企るものの、未遂に終わった。
 
 「所詮、全ては無だ。故に、無は終わらせねばならぬ」

 これが、その際の遺書である。
 
 因みに、失恋の痛手から絵を描くことを止めていたクリスティに、彼の気丈な母は憤りを隠さなかった。

 「母さんはがっかりだ。お前の足をくれれば、母さんの足を喜んであげるよ」

 クリスティの母は、そう言って、息子に絵を描かせるために、鍬を持って、更地にクリスティの部屋を作ろうとしたのである。

 クリスティの自我の強さのバックボーンには、この気丈な母の存在が無視できないことを裏付けるエピソードだった。


(人生論的映画評論/マイ・レフトフット('89) ジム・シェリダン <直球勝負の自己投入をする男 ―― 自死への際どい「前線」での「勝負」の中で>」)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2010/12/89.html