2001年宇宙の旅(‘68)  スタンリー・キューブリック <言語表現が本質的に内包する制約性から解き放つ映像表現の決定的価値>

イメージ 11  「分りにくさ」と共存しつつ、「全身感性」で受容する物語



不必要なナレーションや余分な会話を削り取ってまで構築された映像には、削り取った分だけ、観る者を置き去りにさせるリスクを免れ得なかっただろうが、そのことを覚悟してまでスタンリー・キューブリック監督が提示した、映像美溢れる140 分の稀有な世界は、ホモサピエンスの中から特定的に選択されたかのような物語の主人公デビッド・ボーマン船長が、その全身で存分に被浴したであろう、目眩く光の輝きが放つ、人智を超えた宇宙の神秘、即ち、「サムシンググレート」と表現する以外にない異次元の世界を、「全身感性」によって共有することで、地球の支配者として君臨している事実にすら鈍感と化した、私たち人間の究極の「欲望の稜線伸ばし」の営為が、必然的に辿り着く「大驚異」に振れるかの如き「体感的映像」だった。

だから、この映画に関する「分りにくさ」を解読する一切のツールを排除して、真っ新(まっさら)な「全身感性」のピュアな気持ちを自己投入させて、一見、難解な形而上学的メッセージを含むとされる映像を、寧ろ「分りにくさ」と共存する、ごく普通のサイズの不快感を内側に張り付けたままの心情で、提示された映像の中に身を預け入れてきて欲しいという、以下のキューブリック監督の思いが私には受容し得るのである。

「この映画はメッセージではない。言葉に置き換えることのできない、2時間19分のフィルムの体験なのだ。私は(原作を)ビジュアルな体験としてクリエートしたかった。観客の意識の底深く訴えかけるような・・・音楽がそうするような、濃密な主観的体験をめざした」(ブログ「神を体感する映像の旅」より)

だから本稿では、どこまでも、提示された映像の世界で感受した私見のみを綴っていきたい。

一応、提示された映像から判然とする「分りにくさ」と共存しつつ、「まさしくそこに描き出される映像と音楽の絶妙なコンビネーション」(「2001年宇宙の旅講義」巽孝行著 平凡社)によって被浴し、「全身感性」で受容する物語の流れを簡単にフォローしていく。    


2  「人類の夜明け」から「サムシンググレート」への映像提示の独壇場



 「人類の夜明け」と題されるファーストシークエンス。
 
そこで描かれた由々しきシーンは、私たちホモサピエンスのルーツとなる類人猿の群れが、黒い石柱状の物体(モノリス)と遭遇し、それに触れることによって、動物の骨を武器として使用することで、水場争いに勝利し得る技術を習得するに至ったこと。

動物の骨を武器とした類人猿の一匹が、その究極の武器を空中に投擲(とうてき)したことによって、自らの生活圏を宇宙にまで拡大していた、20世紀目前の人類の幻想的風景への変換という、時空を超えたジャンプ・カットの技法のうちに表現されていた。

それは、宇宙航海時代の最盛期に突入した人類が開いた、究極の「欲望の稜線伸ばし」の営為の構図として、今観ても、全く色褪せない圧倒的な映像美を再現する。

一説には、このジャンプ・カットで映し出された宇宙船が、核搭載の軍事用衛星という決めつけによって説明されているが、それは、同時進行的に書き進めていって、映画製作で協力関係にあったアーサー・C・クラークの原作を拠り所にしたものであり、映画では、宇宙船=核搭載の軍事用衛星等々についての、個々の事象について殆ど説明がないから、ここでは単に、ヨハン・シュトラウスの華麗で明るい響ききが得られるワルツ、「美しき青きドナウ」をBGMにして、宇宙ステーションにドッキングするプロセスを流麗に描く宇宙船とする。

と言っても、人類が開く究極の「欲望の稜線伸ばし」の宿痾(しゅくあ)には、手に入れた技術を具現させる行為と同時に、具現させた欲望系を廃棄することが困難であるという厄介な現実を考えれば、当然、核搭載の軍事用衛星のプロバビリティー(蓋然性)の高さは否定できないので、特段に強調し得る指摘ではないとも言える。
 
ともあれ、月面に到着した人類は、地中に埋まっていた第2のモノリスを発見するが、このモノリスが太陽光線を浴びたことによって、木星に強力な電波が発信されるに至る。

この事実は、デビッド・ボーマン船長率いる、木星探査の任務を負った宇宙船ディスカバリー号で惹起する、最高精度の人工知能であるコンピュータ・HAL9000との命を賭けた「内部戦争」の中で明かされるが、そこに至るまでの物語の展開の読解は極めて困難であるだろう。

因みに、モノリスとは、極めて高度なコンピューターの役割を有し、「地球外知的生命」のツールとして物語の中でフル稼働しているものの、「分りにくさ」の極北の如き映像において、水場争いに勝利した類人猿の群れをルーツとする、「人類進化」を決定づける由々しき存在体としてイメージし得る何かであると解釈したい。

 然るに、宇宙船ディスカバリー号の面々には、自らの任務の本来的目的が「木星圏内の知的生命体の探査」という事実が秘匿にされていたこと ―― これが、宇宙船ディスカバリー号での「内部戦争」を惹起する要因になったのである。
 
 
 
(人生論的映画評論・続/ 2001年宇宙の旅(‘68)    スタンリー・キューブリック <言語表現が本質的に内包する制約性から解き放つ映像表現の決定的価値>)より抜粋http://zilgz.blogspot.jp/2012/12/68.html