2011-06-01から1ヶ月間の記事一覧

三宝寺池の四季

西大泉で学習塾を主催する傍ら、暇を見つけて、練馬区石神井公園内にある三宝寺池に何度通っただろうか。陽春の百花繚乱の季節の美しさは格別だった。 (思い出の風景/三宝寺池の四季 )より抜粋http://zilgf.blogspot.com/2011/06/blog-post.html

時計じかけのオレンジ('71) スタンリー・キューブリック <「自己統制の及ばない反動のメカニズム」への痛烈な糾弾の一篇>

1 「超暴力」の限りを尽くして ―― ミルクバー、ナッドサット言語、そして「第九」の陶酔感覚 その詳細は後述するが、本作は、「ルドビコ心理療法」と呼ばれる洗脳実験の「治験前」と、「治験後」の様態を描き出す映画である。 ここでは、「治験前」を象徴す…

フルメタル・ジャケット('87) スタンリー・キューブリック <「戦争における『人殺し』の心理学」についての映像的検証>

1 「狂気」に搦め捕られた「殺人マシーン」の「卵」と、「殺人マシーン」に変容し切れない若者との対比 本作の物語構造は、とても分りやすい。 それを要約すれば、こういう文脈で把握し得るだろう。 「殺人マシーン」を量産する「軍隊」の、極めて合理的だ…

映画史に残したい「名画」あれこれ  邦画編(その2)

偽れる盛装 (吉村公三郎) 恐らく、このような役柄を演じさせたら、京マチ子の全人格が放つ圧倒的存在感は、数多の女優の姑息な「演技力」が嵩(かさ)に懸かって来ても、それらを蹴散らす「身体表現力」において一頭地を抜くものがある。 近代的自我を保持…

花様年華('00)  ウォン・カーウァイ <最近接点に達した男と女の、沸騰し切った〈状況〉のうちに>

物理的距離を近接させた、男と女がいる。 右手にポットを下げて、麺や惣菜等を買いに行く、チャイナドレスが眩い女と、キャリアウーマンの妻を持つが故に、夕飯を食べに行く男が出会う屋台での、日常的な交叉がリピートされ、物理的距離を近接させていくのだ…

あの夏、いちばん静かな海。('91)  北野武 <「台詞なき世界」、「生命線としての音楽」、「死の普遍性」について>

1 「台詞なき世界」について この映画のキーワードは3つある。 「台詞なき世界」、「生命線としての音楽」、「死の普遍性」である。 まず、「台詞なき世界」について。 「障害者は庇護されるべき特別な存在である」 この命題に異論を唱える勇気ある御仁は…

映画史に残したい「名画」あれこれ  邦画編(その1)

ここでは、このような作品を特定的に拾い上げた私の「名画」を、個人的感懐を添えながら、順位をつけることなく、アトランダムに列記していきたい。 因みに、成瀬巳喜男の作品が多いのは、私にとって、成瀬巳喜男こそ最高の映画監督であると考えているから…

処女の泉('60) イングマール・ベルイマン <「キリスト教V.S異教神」という映像の骨格による破壊的暴力性>

1 「大罪」を背負い切れない者が最後に縋りつくもの 独りよがりの観念論を声高に叫んだり、或いは、不毛な神学論争に決して流れたりすることなく、人間の心の奥にあるものを容赦なく抉り出し、キリスト教的で言う、神の主権への背反を意味する、所謂、「原…

羊たちの沈黙('91) ジョナサン・デミ<「羊の鳴き声」を消し去る者の運命的自己投企―― 或いは、「超人格的な存在体」としての「絶対悪」>

1 「構成力」と「主題性」、「娯楽性」、「サスペンス性」がクリアされた一級のサイコ・サスペンス 「The Silence Of Lambs」 これが、本作の原題である。 和訳すると、「羊たちの沈黙」。 この謎に満ちた原題を持つ鮮烈なサイコ・サスペンスは、立場が異な…

僕の村は戦場だった('62)  アンドレイ・タルコフスキー <「非日常」の「現実」の風景と被膜一枚で隣接する、「回想」の柔和な風景の壊れやすさ>

1 異質の二つの風景の交叉の中で露呈された、「非日常」の「現実」の風景が内包する怖さ この映画は、二つの風景によって成っている。 一つは「日常性」の風景であり、もう一つは「非日常」の風景である。 前者は「回想シーン」で、後者は「現実」の風景で…

名もなく貧しく美しく('61)  松山善三<「美しきもの」を、「美しきもの」のまま、堂々と押し出してくる厚顔さ>

1 「秋のソナタ」と「名もなく貧しく美しく」、そして、「あの夏、いちばん静かな海」 ヒューマンドラマなら何でもいいという感覚で、青臭い時代に受容してきた映画を観ることが困難になってから久しい。 とりわけ、ガードレールクラッシュ以降、上辺だけの…

映画史に残したい「名画」あれこれ 序文

1 突沸した「前線」に「決め台詞」を吐かせるファンタジームービーの愚昧さ 常々思うのだが、国内外問わず、なぜ、この程度の作品が様々な映画賞の栄誉に浴するレベルの評価を受けるのか、理解に苦しむことがあまりに多い現状に言葉を失う程だ。(画像は、…

サイコ('60)  アルフレッド・ヒッチコック <精神異常の闇の深奥に到達した一級の心理劇>

「ただ一か所、シャワーを浴びていた女が突然惨殺されるというその唐突さだ。これだけで映画化に踏み切った。まったく強烈で、思いがけない、だしぬけの、すごいショックだったからね」(「ヒッチコック 映画術 トリュフォー」山田宏一、蓮實重彦訳 晶文社)…

JUNO/ジュノ('07) ジェイソン・ライトマン<「非日常の9か月間」における、「胎児に対する責任」という「ジュノの学習」の本質>

1 ヒロインの成長物語のうちに昇華させていく「戦略的映像」 欲望の稜線を伸ばした結果、最悪の事態を招来しても、それを無化することなく、自分の〈生〉に繋いでいくとき、その状況下で選択し得るベターな判断を導き出し、それを身体化する。 その身体化の…

フル・モンティ('97)  ピーター・カッタネオ <日常と非日常の危ういラインで、困難な状況を突き抜けた者たち>

シェフィールド大学に代表される学術都市として、今や工業都市から緑の街へ変貌したシェフィールド(画像は、映画の舞台となったシェフィールドの町)の片隅で、恐らく、低所得層向けの公共的コレクティブハウスに住む主人公のガズが、別れた女房への養育費…

エレニの旅('04)  テオ・アンゲロプロス <極点まで炙り出す悲哀の旅の深い冥闇のスティグマ>

1 「生涯難民」という懊悩を刻む呻き アンゲロプロスの映像世界の本質が、20世紀という、人類史上にあって、そこだけは繰り返し語り継がれていくであろう特段の、しかし際立って尖った奔流が、脆弱なる抑制系を突き抜けて垂れ流した爛れの様態の中枢に、…

アニー・ホール('77) ウディ・アレン <自分の狭隘な「距離感覚」の中でしか生きられない男>

そこそこに人気のあるピン芸人(話芸で観客を笑わせる漫談家という意味で、欧米では「スタンダップ・コメディアン」と言う)の皮肉屋は、なぜか女にモテて、生活にも不自由しない中年男。 「私を会員にするようなクラブには入りたくない。これが、女性関係で…

グロリア('80) ジョン・カサヴェテス < 大いなる「母性」の立ち上げによる、全き「疑似母子」の仮構に至る物語>

1 呆れるほどハリウッド的なハッピーエンドに流れ着くエンターテインメント 驚くほど聡明で、感受性豊かな6歳の坊やと、驚くほど拳銃捌きの巧みな中年女が、「絶対悪」との戦争を経て、呆れるほどハリウッド的なハッピーエンドに流れ着くという、娯楽アク…

ラスト・ショー('71)  ピーター・ボグダノヴィッチ <青春映画のコアを包括的に吸収した「風景の映画」>

1 「ノスタルジア」に縋るしか術がない、「衰退」という名の削られ方 この映画が秀逸なのは、「風景の映画」としての包括力を持って、「青春映画」のコアの部分を巧みに吸収する表現力を構築し得たからである。 「風景の映画」―― それは「土地の風景」であ…

バグダッド・カフェ('87)  パーシー・アドロン <「日常性」の変りにくさに馴染んできた者たちによる、「第二次オアシス革命」への過渡期の熱狂>

1 疲弊し切った二人の女の邂逅の象徴的構図 本作の作り手が、構図に拘る事実を印象付ける象徴的なシーンがあった。 ブレンダとジャスミンの、初対面のシーンである。 まるで商売っ気がなく、鈍重な夫を追い出し、ハンカチで涙を拭うブレンダと、反りが合わ…

雁('53)  豊田四郎 <約束されない物語の、約束された着地点>

1 特定的に選択された女性 「これは、東京の空にまだ雁が渡っていたときの物語です」 これが本作の冒頭の説明。言わずと知れた、森鴎外の著名な原作の映画化である。 ―― ともあれ、そのストーリーラインをなぞっていく。 ここに一人の男がいる。その名は末…

山の郵便配達('99) フォ・ジェンチイ<「美しきもの」と「善きもの」との不即不離の紐帯のうちに包摂された「至高の価値」>

1 「全身山里人」と「半身山里人」 本作は、「半身山里人(やまざとびと)」が、「全身山里人」との、2泊3日の「公務員としての山の郵便配達」の濃密な共有経験を介して、「全身山里人」としての「職業」を選択することで、山里への「定着」を決意してい…